「さあ、もう良いぞ、桔梗。間もなく大船に着く」
桔梗とはこの女だろうかと尊良が考える間もなく、尊良に抱き着いていた女が手足を動かそうと身を捩った。
「父上、着物を剝いでください。動けません」
「おお、そうだな。これはまた、大層にくるんだものだな」
時元が着物を剝いでいくと、尊良の視界が明るくなってきた。女の肌の白さが分かる。女の顔は近すぎて見えない。
「さあ、これで最後だ。あとは桔梗の着物だけだぞ」
時元が言うのと同時に、桔梗と呼ばれる女は尊良から離れると素早く着物の前をかき合わせた。
尊良に被さっていた着物も女も全てが目の前から消え、仰向けに横たわったまま眩しい空の青さに目を慣らした。
「時元よ、もう動いても良いのか?」
「上手く行きましたぞ。誰も気づいておりません。起きていただいて、大丈夫ですぞ」
起き上がった尊良の目に見えたのは、小舟の上にいる時元と若い女だけだった。その女と目が合った。
「手前の娘で、桔梗と申します。手違いの無きよう、娘に手伝わせました」
尊良の無事を確認した時元が、娘を紹介した。桔梗は顔を赤らめて息を整えている。目は尊良を見ているが何も言わない。
「桔梗とやら、世話になった。命がけであったものを、おなごの身では怖ろしかったであろうな」
初対面ではあったが、熱いほどの身体の温さや、生き生きとした強い鼓動を、たった今まで感じていた相手なので、妙な懐かしさを覚えた尊良であった。
「いえ、一宮様の心の音が響いてきましたので、安心しておりました」
まだ十六、七であろう桔梗の気丈な言葉に、尊良は眼を瞠った。なるほど、遊女に化けられるほど美しい容姿の娘であるが、昆布衆の頭の娘だからか、芯の強い精悍さを併せ持っているようだ。
「では、同じだな」
そう言って尊良は、仲間と接するように笑った。
ずっと尊良の目を見ていた桔梗も息をついたように微笑んだ。
「この末娘は、とんでもない跳ねっ返りなもので‥‥」
時元も豪快に笑った。
このように笑った事が、これまでに何度あったかと、尊良は自分の人生を瞬時に振り返った。
白い鴎が一羽、尊良の頭上を掠め飛んだ。
「時元よ、我は名を改めるぞ。読みは同じだが、鷹義とする。親王の座も捨てる。我を昆布衆に入れてくれぬか?」
予期せぬ尊良の言葉に、時元は慌てた。
「そんな勿体ない。昆布衆は天皇家に仕える身でございます。親王様は主上の後を‥‥」
「我は後継ぎではない。それを恨みに思ったことは無いが、これからは蝦夷島で、一人の男として生きてみたい。北の空を舞う鷹のように、義に生きるのだ。昆布衆として、父上と天皇家の再興に尽くしたい。聞き入れてくれぬか?」
晴々とした尊良の表情に、時元は胸を打たれた。尊良が望むようなことが可能かどうか、時元には分からない。だが、昆布衆は義に生きる者。尊良の命がけの願いに出来る限りの助力をしたいと思う。
「承知仕りました。鷹義様、この時元にお任せください。さあ、大船に着きましたぞ」
振り返った鷹義の前には、土佐へ流された時に乗った船よりもずっと大きい船が浮かんでいた。
「父上、桔梗も一緒に参ります」
澄んだ声で桔梗が言った。
「何だと?」
「ですから、桔梗もこの船で、鷹義様と父上と一緒に蝦夷島へ行きます」
娘桔梗の突然の望みに、父時元は呆れて言い返した。
「何と、お前はこのまま西浦へ漕いで、新佐に報告する手筈ではないか」
「大船から旗で見張りの者に来てもらい、代わりに行くようにします」
桔梗は平然と答えた。
「それにお前は、能登屋の倅との祝言が控えておるではないか」
「姉様も蝦夷島へ行って戻って来ぬし、能登屋の甚三郎との祝言はまだ決まっていません。あのような白蚯蚓、父上も嫌っているではありませんか!」
桔梗の声が鋭くなった。
「甚三郎が嫌なら、越後屋の宇兵衛でもよいぞ」
「あんな女ったらし、虫唾が走ります!」
「ならば、出雲屋の倅がいるではないか!」
時元の声も大きくなる。
「あの子はまだ八つです!」
互いに引きそうにない。
黙って見ていた鷹義が間に入った。
「おいおい、ここまで来て父娘喧嘩とは、愉快な父娘だな。どうだ桔梗、この鷹義の妻にならぬか? 蝦夷島へ連れて行ってやるぞ」
当然のことのように鷹義は言った。
「なります! 蝦夷島でも津軽でも、どこへでも参ります!」
桔梗は飛び上がって喜んだ。小舟が揺れる。
「わっはっは、愉快な娘だ。さあ時元、桔梗も連れて行くぞ」
「勿体ないことでございます」と、時元は頭を下げた。慌てて桔梗も倣った。
そうして三人は大船に乗り込んだ。
鷹義の身代わりを残したお陰で、尊良親王の失踪は義貞に気づかれなかった。恒良しか目に入らない義貞であったからか、身代わりの男が尊良に瓜二つであったからか、それは判らない。
恒良には、尊良が一足先に抜け出たことを、城内にいる昆布衆の者から伝えてある。父の後醍醐の命令であり、自分の置かれた状況をわきまえている恒良であるから、不安ではあるものの、運命に従うしかなかった。
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