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後醍醐の昆布 その10

2021年02月01日 | 小説

 後醍醐の言葉は義貞の魂を捕らえた。義貞は感激のあまり顎の力が抜け、あんぐりと開いた口から涎が垂れた。義貞の恍惚感は忽ちその場の一同へ伝播した。

 上手くいった。これで決まったと、後醍醐は腹で笑った。

 

 十月九日、慌ただしくも春宮践祚の儀が行われた。これで義貞は新たな天皇を戴き、天子を奉る将軍として敦賀へ向かえる事となった。

 出発は十月十日、後醍醐の還幸と同じ日である。

 義貞と恒良らの一行は、一宮の尊良親王も含めて、総勢七千余騎で北を目指した。

 京へ向かう後醍醐の一行と、敦賀へ向かう義貞の軍勢。これとは別に、尊澄親王は船で遠江へ、懐良(かねよし)親王は吉野へと向かった。

 出発の前日、践祚の儀を終えた後、恒良と尊良の二人は後醍醐に呼ばれて奥の間に進んだ。

 別れの言葉かと思っていた二人に後醍醐は、敦賀へ向かうにあたっての策を授けた。

 越前敦賀の周囲は尊氏勢に押さえられているが、敦賀の町だけは尊氏も手が出せず、後醍醐方が守る町であった。

 越前国の一宮である敦賀の気比社は、敦賀郡のほとんどを支配していた。特に、古くからの良港敦賀津は北の都として栄えており、唐人町を形成するなど、交易の中心地である。

 院政期には、越前と若狭の国は美福門院(藤原得子)の分国であり、鳥羽法皇と得子の間に産まれた娘の八条院に譲られた。そして、八条院領は大覚寺統の所有となり、現在では後醍醐のものである。

 越前・若狭の知行には平氏一門があたったが、気比社の家領職は建久七年(一一九六)に九条家が賜り、その後青蓮院に譲られた。そして、本家を大覚寺統として、領家が青蓮院とする領地関係が続いていた。

 気比社の管轄下にある敦賀津には、越前・若狭にある他の津や浦と同様、山門・日吉(ひえ)社の手が伸びていた。琵琶湖の交通を押さえていた日吉の神人は、北の要津を手に入れ、更に日本海の交通権をも独占しようとしていたのである。

 気比社には日吉神人を兼ねる神人がおり、敦賀津を通じる交易は、日吉社・山門を通じて大覚寺統の天皇家の支配するところとなっていた。交易・商業に目を向けた後醍醐は、敦賀津の重要性を熟知しており、後醍醐の軍資金を賄う主要な地として敦賀は位置づけられていた。

 しかし、若狭は尊氏の手に落ち、越前も後醍醐の政権当初には新田一門が守護であったが、尊氏との争いの結果この年の半ばから、尊氏方の斯波高経が守護となっている。敦賀の町は気比社神人や僧兵が守っているものの、周囲は尊氏軍が固めていた。琵琶湖から敦賀へ入る峠にも、尊氏軍が配置されていると思われる。しかし峠を北から迂回すれば、敦賀の町に入るのも可能だ。

「何としても敦賀へ入るのだ。気比社には、神人の昆布衆が居る」

 後醍醐は二人の皇子に申し付けた。皇子の一人、恒良は既に天皇であるが、一家の惣領は依然として後醍醐である。

「昆布衆とは?」

 年長の尊良親王が尋ねた。

 その問いには同席していた文観が答えた。

「蝦夷島(えみしじま)の昆布を敦賀に運んで、京や唐国へ売り捌く者たちでござる。我が軍の銭貨は、主に昆布衆の働きで得ております」

「そうであったか。昆布で銭を儲けておったか」

 皇子たちには市井の知識が無いのが通常であるが、戦乱のただ中に生まれ育った後醍醐の息子たちは特殊であった。幼い恒良はともかく、尊良は戦の先頭にも立っていた。軍資金となる銭が唐国より交易で入って来る事は知っていたが、それが昆布の交易によることまでは知らなかった。

 皇子たちの驚きの表情を見て、文観は説明を続けた。

「昆布は、日吉社の神人が気比社の神人と共に采配して、主上の御支配の下にあります。先に主上が、我国でも銭貨を鋳する詔を発しましたが、準備の整わないままにこの様な事となりました。これからの戦は軍資金がものを言う次第なれば、昆布の道だけは何としても、敵方に取られてはなりません」

 密教僧文観もそれなりのカリスマ性はあるのだが、後醍醐の威光とは比べ物にならない。

「なるほど。唐国ではその昔、徐福と申す者に仙薬を探させて我国に遣わしたと聞くが、その仙薬とは昆布の事だと申すではないか」

「さすがは一宮様、その通りでござる。昆布は昔から寺社の供物であり、当家の神饌に用いられし珍物ですが、唐国には生えませぬ。ところがこの昆布、水の悪い唐国では喉の病をはじめ万病に効くとあって、あの唐人でさえ銭を惜しみませぬ。当家では代々、神人を通じて御支配申しておりまする」

 自分の手柄のように話す文観であった。

「それで、その昆布衆を見張れと申すか?」

 兄に先を越されまいと、天子となった恒良が勇んで言った。

「いえ、昆布衆は主上に忠実な者たちでござる。もしも敵の手に落ちようなら、即刻腹を切るつわもの揃いでござる。海を渡り、蝦夷の輩を相手にしておる剛の者なれば、その心配はご無用と存じます」

「それでは‥‥」と、恒良は言葉を探した。

 そこで後醍醐が口を開いた。

 



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