マルクス剰余価値論批判序説 その35
6、外部としての社会
資本家は労働者に労働させる。労働時間は、習慣的にあるいは法的に(あるいは暴力的に)決まっている。生産された商品は、全て資本家のものである。生産された商品の価値は、それに要する労働時間で規定される。それは、商品が労働生産物であり、労働の媒介によってしか生産されないからである。
労働は価値ではないから労働生産物も価値ではない。ただ、私的交換の労働生産物だけが価値になる。問題は、労働生産物を私的に交換させるシステムの存立構造である。その構造の根幹の物的なものを「貨幣」、精神的なものを「価値」であると、マルクスは考えたのである。
構造を問う場合には、その構造の成立と崩壊についての諸問題とともに、その構造の維持(再生産)としての構造自体の運動法則が問われる。『資本論』第一巻の大半が、この連動法則の叙述に充てられているが、マルクスの自意識は、自分が見出したこの運動法則が論理的に自律的なものであると、思い込んでしまったのである。
運動法則が論理的に自律的なものならば、その崩壊はこの運動そのものの展開にある。貨幣の自己増殖、資本の運動そのものが、この構造を崩壊させると、マルクスは考えたのである。
しかし、資本は資本家であり、考える人である。資本家間および労働者間との競争を、資本家は無際限に行なうものではない。自分の存立を危うくするような、構造を崩壊させるところまでの競争や闘争は、それを回避することを習得する。マルクスの予測は、資本家たちの知恵によって外れてしまった。
マルクスが見出した運動法則の展開によっては、資本制生産様式は崩壊しない。それは、マルクスの運動法則が、論理的に自律的な法則ではないからである。資本の連動は、自己運動・自律運動ではないのである。
マルクスの連動法則(資本の運動)には、その運動法則には関わりのない外部が内包されている。マルクスはその外部を隠して、運動法則を仕上げたのである。そして、資本もまた、その外部を隠蔽することによって、増殖するのである。
資本制生産様式は、マルクスが隠した外部によって発展し、崩壊する。
賃金形式は、外部を内部であるかのように見せるのだが、しかもそれを、平等原則に訴える形で、その演技を行なうのである。労働賃金という形式は、賃金が労働に対して支払われているように見せる。しかも、それが全部について支払われていないということをも同時に見せるので、全部を支払えという意識を生じさせ、それによって労働が支払われるものであるという意識を、ますます強固にするのである。
マルクスが批判すべきだったのは、労働が貨幣で買われることそれ自体だったはずである。労働という人間的ゲマインヴェーゼンが、貨幣という物的ゲマインヴェーゼンによって支配され、しかもそれを隷属とは意識しないという宗教信仰的転倒について、他の誰よりもマルクスこそが完璧な理解を持っていたはずである。商品や貨幣についての論述では、マルクスがたしかにこのことを理解していたことが、読み取れるのである。
ところがマルクスは、労働については読み違いを犯している。それはマルクスが、労働に生産を見ていたからである。マルクスの言う労働とは、生産である。生産力・生産関係・生産様式・生産形式などは、労働力・労働関係・労働様式・労働形式を、労働の成果としての生産物の立場から見た場合の規定である。(21)
労働の交換はゲマインヴェーゼンである。そして、生産物の交換は「ゲマインヴェーゼンの果てるところで、ゲマインヴェーゼンが他のゲマインヴェーゼンと接触する点で始まる(22)のである。
つまり、商品交換者たちの相互連関である社会は、ゲマインヴェーゼンの外部にあるのである。社会はゲマインヴェーゼンの外部で始まり、ゲマインヴェーゼンを解体して成長して行くのである。ただし、ゲマインヴェーゼンを物に転化しながらである。
したがって、これまで「社会の外部」という言い方で、人間的ゲマインヴェーゼンである労働を表現してきたのは、適切ではなかった。労働が本源部であり、社会が外部なのである。社会の立場に立ち、社会を視軸に捉えた場合にのみ、労働を「社会の外部」と呼ぶことが許されるのである。
マルクスは、社会(ゲゼルシャフト)に導かれて、その構造と運動法則とを抽出しえた。しかしマルクスは、社会(ゲゼルシャフト)を超えることは目指さなかった。社会がゲマインヴェーゼンの外部で生まれたものであることを理解しつつも、外部としての社会が本源部を浸食し飲み込んで発展して、ついには外部であった社会がそれ自体ゲマインヴェーゼンに転化したと、マルクスは考えたのである。そして、社会自身が社会を完成させるだろうと、マルクスは期待したのである。社会を自律的なものだと捉えたからである。
だが、社会の完成は社会でしかない。現実的には株式社会の集中・連合であり、理想的に見ても唯一資本による全社会の支配という社会である。
社会の外部を見ない、あるいは社会を外部として見ないことは、社会を絶対化することにつながる。ゲマインヴェーゼンの外部としての社会の始まりを捉えたマルクスですら、社会の外部性を消滅させてしまったのである。
以上、マルクスの社会概念という視角から、その剰余価値
論の批判の端緒について考察した。マルクス剰余価値論批判の本論は、社会の外部としての労働が、いかにして、社会を外部として消滅させるのかという問いの展開として、論じられなければならないだろう。
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