母方の祖母は晩年、重度のアルツハイマーでした。
少しずつ物忘れがひどくなり、孫の名前が分からなくなり、介護していた自分の子供を忘れていく姿は、必死に介護していた私の母には辛い仕打ちに見えました。 その頃では、祖母はもうわがままな子供のようになっており、言うことを聞かない祖母に思わず手を上げてしまったことを、母は今でも後悔しています。 しかし、それをこの世の誰が非難できるだろうか。
ある時期、祖母は徘徊するようになり用事もないのにいつも決まった場所に行っては帰ってくるということを一日に何度も繰り返していました。
広い田んぼの真ん中に伸びる長い一本道の入り口には公園があり、太平洋戦争当時はそこにバス停があったそうです。
祖母には兄がいて、皆そのバス停から戦地に赴き、フィリピン、ビルマ、硫黄島で英霊となりました。 祖母の兄達はとてもやさしかったらしく、祖母をとてもかわいがっていたそうです。
やさしかった兄達が戦地から無事に帰って来ることを心の底から望んでいたのでしょう。アルツハイマーという病魔も「思い」を消すのは難しかったようです。
今となっては、彼らがどんな最後を迎えたのかは知る術はない。しかし、祖母の心に確かにやさしさという愛情は消せない記憶となり残されている。 人類が戦争をしたという消してはいけない記憶とともに受け継ぐべきは、まさしく「思い」という尊い遺産であろう。
形あるものしか目に入らない現代人は、津波で全てをなくした人が見ているものが何なのか考えるのも、重要な復興支援の一つだろう。
厳しい夏の日差しが過去の過ちを正した様に、何かを正す暑さだと思いながら未来を目指すのが生かされている我々の責務である。