「テレビに出るなんてまっぴらご免だ。第一口下手だ。勘弁してよ」と固辞したんだが聞く耳をもたない。
「昔のよしみだろう」「ひと肌脱げ」などと、しつこく食い下がってくる。
Mが暮らしているのは群馬県で、そこの県域放送局でニュース番組を担当して4年になり、世界遺産に登録された富岡製糸場と生糸の輸出港だった横浜港とのかかわりを現地ロケして放送するんだという。
「10分足らずに編集するので手間は掛けない」「何とか頼む」というので、渋々承諾した。させられた。
そのロケが、よりによって低く雲が垂れこめて北風が吹きすさぶ横浜港大桟橋でスタートしたのが10時過ぎ。
余りの風の冷たさに舌が良く回らず、酒でも引っ掛けてくるんだったと思ったが後の祭り。
遮るものがない突堤の見晴らしの良い一番高いところで収録しているのだから、カラッ風に慣れているはずの連中も「寒い寒い」を連発している。
台本が届いたのは3日前で、Mがあれこれ質問するのに答える役どころである。
いい加減な知識で出るわけにもいかず、2日間、横浜と生糸、横浜と群馬などを勉強し直す羽目に。
そのお陰で大正12年の関東大震災で横浜港が壊滅的な被害をこうむって神戸港からも輸出されるようになるまで、当時の主要輸出産品だった生糸の輸出を独占し続けていたということを初めて知った。
これはびっくりポンで、なるほど富国強兵、欧米の列強に追いつけ追い越せ、などと号令をかけていた割には、貿易港の数も知れていたんである。
背伸びをする足許は、かくも脆弱だったんだということが分かる。そんな状態で日清、日露の戦争など、随分と危ない橋を渡ったのものである。
そのしっぺ返しが第二次大戦での大敗だったんだが、今また積極的に武力を使おうとしているのだから、何をか言わんやなのだ。
明治の中ごろまで生糸貿易の中心的役割を果たしていたのがキャベツの一大産地として知られる群馬県嬬恋村の出身の中居屋重兵衛で、その店舗跡に案内板が立てられていたはずだが、あいにくビルの改修工事中らしく案内板もろともシートに覆われてしまっている。
「キーケン」と呼ばれ、昭和も40年代ころまで機能していたように記憶しているが、生糸検査所という国の機関があって、往時のままに復元された建物に案内し、キーケンの意匠を真似たような生糸専門の倉庫会社の、今は保存対象になっているはずのレンガ造りの建物にも案内したり…。
改めて光を当てて見ると、生糸貿易に関する遺産は数多く残されているものである。
昼飯に中華街でアサリそばの名店に案内して大いに喜ばれたが、連中はアサリそばにシュウマイなどが付いたセットを注文したので、地元民の案内役としては午後の舌の回転を滑らかに保つ必要もあって、独自のセット、つまり紹興酒を付けたのである。
その効果もあって、午後の三渓園の案内はスムーズに運んだことは言うまでもない。
三渓園とは生糸貿易商にして、富岡製糸場のオーナーにもなった原富三郎が、築き上げた財力にものを言わせて全国各地から集めた古建築17棟を点在させた17.5ヘクタールもの日本庭園である。
収録の中で「富岡製糸場の遺産登録を聞いてどう思いましたか」と聞かれたので、「建物にそれほどの意味はないでしょう? そこで働いていた人の方に興味がある。特に女性の工員さんのことを思った。歴史遺産と言うのは人の歴史のことでしょう」と言い、「これから歴史遺産をどう生かしていけばよいと思うか」と型通りの質問をするから「その時代にここで汗を流した人たちに焦点を合わせて学べるようにしてもらいたい。単に明治の建物を懐かしむなら意味がない」「女工哀史のような事はなかったんだろうか、そういう面も含めて人と時代を学べる場に」などと答えたから、お気に召さなかったかもしれない。
まぁ、編集権はテレビ側にある。29日夜の放送だそうだ。
群馬テレビのクルー
池の手前にゴイサギがいて、近寄っても逃げようとしないのには驚いた=いずれも三渓園
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