私に何の相談もなく留学を決めたことに、元夫の両親はひどく恐縮してすんなりと離婚手続きが完了した。元夫が自らの意思で決めたとはいえ、私はいつも彼に対して何か秀でた能力を持つことの必要性を過度に煽っていた。私は何も努力していなかったにもかかわらず、周りの友人知人や里帆からの自慢話を聞かされるたびに生じる焦りと劣等感が、一番身近な存在だった元夫の尻を乱暴に引っぱたく攻撃性に変わった。元夫は私を見返すために留学という手段を選んだのかもしれず、それなら私も彼のお手並みを拝見してあげるべきだったけど、私以上に互いの家族が離婚を急いでいるのがわかると彼に対する執着心も弱まってしまい、私たちの夫婦の絆とは水産缶詰の中骨のように脆いのだと彼に打ち明けると、彼は「せめてサクサク感があってくれたら踏みとどまれたんだけどな」と返した。刺激の少ない相手から刺激の必要性を指摘され、私も元夫も互いに矛盾を孕んだまま夫婦の道を歩もうとしたのだから、離婚の傷を癒すのに時間はかからなかった。
もし私が岡野のぞみだったら、地元の信金職員で妥協せずに金も地位もある男性を捕まえられるはずだ。何の根拠もない「たられば」でかつて同じスタートラインにいた沢田繭子を見下す自分が愚かしいと自覚していながらも、現実を直視すれば周囲からバツイチでとっつきにくい印象を持たれ続けているから、せめて自分が最も輝いていた時期のプライドを引っ張り出すと、彼女の選択が他人事でも許せなくなってしまう。友人知人が順調に年を重ねているのに、私だけが独り身の気楽さゆえに二十代前半の頃と変わらぬ価値観と金銭感覚に逆戻りしている。更年期や老後の足音が近づいているというのに、いつまでも若いふりをしているのが同僚たちの嘲笑のネタになっていることもわかっている。しかし、今よりも過去が大事だという逆行から逃れようにも逃れられない私は、離婚を機に外見も内面も若作りするのが過去の行いの清算だと思い込み、時には誤解を招くのもいとわなくなっている。そんな折に、私よりも年不相応で十代後半の大胆さと厚顔無恥を隠そうとしない岡野のぞみが、これまでの芸歴を帳消しにして地元に帰るのは喪失感を覚える。里帆のように連絡先を知っていていつでも会える立場なら、岡野のぞみをボコボコにぶん殴っているはずだ。
二十年以上も会っていない子を勝手に仲間だと信じて裏切られるのは、私の独りよがりゆえの歪んだ感情だと重々承知している。もう私は誰を基準に置くことなく、自由気ままな生活を満喫すればいいのだ、と将来を案じればとても許容できない解放感を手に入れた。世間から迷惑がられた三流芸能人の岡野のぞみでさえ、嫌われ役の座から降りて平凡な人生を選んだ意気地なしだ。私は違う。今が大事だと誇れるのは、過去の失敗や責任にけじめをつけずに自らの欲望をお行儀よく成し遂げた人たちにかぎられる。私は彼らのようにはなれない。いや、なれたところで過去の残像がすぐに浮かび上がり、お行儀のよさは下品で粗忽な言動に変貌して身近な人たちを傷つける。私は里帆にも岡野のぞみにもなれず、社会の片隅で成熟した大人になりきれない惨めな中年女性だ。わがままで攻撃的で鼻っ柱が強く、周囲をドン引きさせるのに何の逡巡もなく反感を買い続け、その一方で会うたびに私生活自慢の絶えない里帆とのコミュニケーションを通じて自らの愚劣さを思い知る。里帆がいなければ単なる素行不良のDQNで迷惑千万な存在になっているだろうから、彼女は私に自分を客観視させてくれる貴重な恩人なのかもしれない。
成熟しきれないまま生き長らえたら、私も周りに迷惑をかけ続けるのかな、と中高年の生きづらさと向き合わなければならない厄介さが自己嫌悪に陥らせる。図々しくて身勝手で権利ばかりを主張する人生の先輩たちを蔑んでいる側だけど、いずれ蔑まれる側に回ると思うと社会と深くかかわりを持たず誰にも依存せずにひっそりと生き続けたくなる。むろん、そんなことは自己中心的なないものねだりで、友人知人とのよそよそしくて形式的な社交は継続されるだろう。古株OLとして自分自身を養うためには世捨て人になれず、かといってサービス残業を当然の風潮とする社風を徹底的に拒み、上司や同僚から陰口を叩かれていることも知っている。自分らしい生き方を志向すればするほど、元夫を突飛な行動に走らせ、会社の人たちから反感を買うのだから、周りに流されたほうが潔いと思いがちだけど、高校時代に覚えた負けん気の強さと猜疑心が先立って自分本位の言動へとせき立てる。大人になった今でも、安易に人を信じられない警戒心の強さが元夫との夫婦関係のように親しい間柄になろうとした途端に拒否反応を示してしまい、愛情や友情が長続きしない。里帆との親交が長く続いているのは、彼女と友情を求め合っていないからだ。
沢田繭子にも大人の分別があったのか、と彼女に初めて会ったときを思い出しながら、私は土曜日の午前中にもかかわらず無性にお酒が飲みたくなり、桃屋の「味付搾菜」と明治の「モッツアレラ6Pチーズ」、亀田製菓の「こつぶっこ」を肴に、特売で買った紙パックの芋焼酎のロックをいつもより速めのペースで喉の奥に流し込みながら、インターネットサーフィンを始めた。週末の日課である洗濯と掃除と買い物は、里帆からの予期せぬ電話で体を動かす意欲を失い、レースカーテン越しには雲一つない秋晴れの空が広がっているのに、窓を閉めきった1DKの部屋の中にはその心地よさが伝わらず、一週間分の湿気とほこりが滞留しているのがわかる。土日を使った一泊二日の旅行に出るときも家事は後回ししていたじゃん、と生活リズムの乱れにさしたるうしろめたさを覚えずに、テレビチューナー内蔵のデスクトップパソコンと差し向かいで独り酒盛りを続ける。さっきまで軽く聞き流していたはずの「王様のブランチ」の司会やリポーターの陽気な会話が腹立たしくなり、そばにあったリモコンをひったくって消音に切り替えた。
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