フジテレビの人気ドラマ「Dr、コトー診療所」の新シリーズが始まった。僕はテレビドラマの大ファンであるが、このドラマの魅力は医療物として江口洋介主演で人気となった「救命病棟」に並ぶと思っている(医療裁判を扱った「白い巨塔」は故田宮二郎主演で人気を博し、リメークでまたまた人気を呼んだが、趣やとっつきやすさが少々違う。こっちは医療本格物だが、意外とリアリティーを意識し過ぎている。裁判関係者に言わせると、このドラマは意外や意外、裁判としては成立しにくい内容のものだそうである。本格物の嘘っぽさは罪であるというべきだろう。その点、先に取り上げた二作品には内容に解釈の自由度がある。手塚治の「ブラックジャック」がいい例だが、エンターテインメントはでたらめを取り除きつつ、そこに縛られない自由的な発想が必要なのだ)。
と言って、先の二作品が安っぽい医療物かというと、案外そうでもない。以下、「Dr、コトー診療所」の人気の秘密、大衆から支持を受ける理由に迫ってみたい。
この作品は雑誌コミックか何かで連載されているものらしい。今も連載されているかどうか不案内だが、それはそれとして、ドラマを通して見えてきた世界を掬い取ってみよう。
Dr、コトーこと五島健助(東京の大学病院に勤務していたがそこをやめた)が南海の孤島・志木那島へ赴任してくることによってこのドラマは始まる。最初、島民たちは彼のことを信用しない。定番というかセオリーである。これ以前に、島へは何人かの医師がやってきているが、そのほとんどが腰掛け的に(たぶん事なかれで)任期をこなし、やれやれとばかり去って行ってたからである。ドラマのヒロインである星野彩佳は島の看護師であるが、それら無気力な医師たちを身近に見てきた存在である。当然、彼に対しても懐疑的であった。
当時の彩佳の心の中を少し覗いて見よう。
(こんな島へやってくるような医者だから、どうせ使い物にならない腕に違いない。まだ若いし、東京の大学病院にいたのなら、周辺の民間病院からは引く手あまたのはずだったのにそこにも行かなかったのはどうしてだったのだろう? 見たところ性格は暗そうで引っ込み思案のようだ。仲間から爪弾きされたとか、自身が心身に病を持っているとか、そういうことじゃないだろうか。どっちにしても、自分はこの人の任期が終わるまで暇つぶしの相手をするだけ、どうせ、この診療所は年中開店休業の状態なんだし・・・エトセトラ)
いささか週刊誌ネタ的に書いてしまったが、人の心というのは傍目にはきれいに感じられても、こんな風にゴチャゴチャしているものなのだ。
しかし、彩佳の見立ても島民の赴任医師への懐疑も、少しずついい意味で裏切られていく。彼は人の命を誠心誠意でいたわる真摯な医者だったからである(しかも思いもかけず有能であった)。
さて、ここで歴史の流れというものについて考察してみる。
文明とは光ある場所から光のとぼしい場所に向かって光が及んでいくことである。
五島健助の健助はまさに健康を助けるから来ていると思われるが、彼はこの光の役割をになってこの島へやって来る役割を与えられているのである。
その光をまさに師匠の心として受け止めることになるのは、彼のメスによって命を救われた原剛利(島一番の漁師)の息子剛洋である。彼はやがて第二のコトー先生を目指して島を出て行くことになる。それらの知識を習得するには光(知識)の溢れた場所へ出て行かなければならないのは言うまでもない(これはいわば、明治期に後に名をなした人たちが若き頃、次々とヨーロッパに出向いて行ったことに似る)。
東京に出た剛洋は――――。
この先も実は続けて書きたいのであるが、視聴者の想像力に任せたい。というのは、今回始まった新シリーズが、僕の書こうとすることに抵触するかもしれないからである。それではせっかくの楽しみを半減させることになるかもしれない。
そのヒントは、剛洋のGF小沢ひなの存在に託されているとだけ言っておこう。