電子図書「私たちのマイクロ波通信50年」の発売(BHNへの寄付)

2015年01月29日 | ロングアクセス

 会員の皆様へ

  BHNへ寄付のため次のような案内がありましたので
  ご紹介します。
  
*****************************
 10年ほど前に桑原情報研究所が編纂した
「私たちのマイクロ波通信50年」が電子図書として発売されました。
電子図書で出版するとどんな感じのものになるか、
一度お試し頂けると幸甚です。
電子本の定価は864円(税込)です。
印税はその1割で、すべてBHNへ寄付といたします。
本屋は
「BOOK STACK(http://www.book-stack.com/)」
という電子書籍店を検索、
TOP頁の左側にカテゴリの中で「情報通信」を選ぶと出てきます。
--
桑原守二
BHNテレコム支援協議会名誉顧問

電子書籍店はこちらから
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「青色LEDの開発に隠れた貢献」 松岡隆志さん(日比谷同友会会員)

2014年10月09日 | ロングアクセス

 青色LEDの開発に関わった会員 松岡隆志さん(元NTT光エレクトロニクス研究所)

の記事が、読売新聞に掲載されました。

(下の記事をクリックすると拡大、再拡大できます。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会員鈴木滋彦様から「NTTが世界の革新企業100社」に選出された情報です。

2011年12月20日 | ロングアクセス
会員 鈴木滋彦様(同友会副会長)からの情報です。
NTT が、特許動向から見る世界の革新企業100 社に選出されました
NTT知的財産センタからの情報(添付資料参照)によれば、 このたびNTTは、
『トムソン・ロイター 2011 Top100グローバル・イノベーター・アワー ド』に選出されました。
  http://science.thomsonreuters.jp/press/release/2011/515197/
本賞は、トムソン・ロイター社が独自に開発した分析方法により、特許登録率、
特許ポートフォリオの世界的広がり、文献引用における特許の影響力、特許数
を評価基準として、世界規模でイノベーションを推進し、アイディアを保護 し、
発明を商品化することに全力を挙げる企業として選考された100社に与えられる
もので、今年が第1回の取り組みとのことです。

NTTは特許登録率が70%以上と高いこと(業界の登録率平均は50%強)、
他社に先駆けて研究開発を進め、先進的な基本特許をおさえることで
特許引用数が多いこと、の2つを中心に評価されたものとのことです。

100社のうち、日本企業が27社もありますが、世界的に見ても通信キャリアは
NTTしか選ばれておりません。
ちなみに100社の中での順位付けなどの詳細情報 は一切開示されておりません。
                             以 上

詳細はここをクリック


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドキュメント 伊能忠敬と伊能図の再発見  渡辺 一郎

2011年05月02日 | ロングアクセス
ドキュメント
伊能忠敬と伊能図の再発見
―伊能大・中・小図が完全に揃うまで―
                                 渡辺 一郎
伊能図との出会い 四○歳台の後半、縁あって伊能忠敬に関心を持ち、国立国会図書館で伊能図の本物を見て感銘をうけ、世界の各地に散在する伊能図歴訪の旅を始めることになった。
日本学士院の伊能中図模写図、東京国立博物館蔵の、測量当時の老中大河内松平家伝来の伊能中図副本、成田山仏教図書館の伊能中図写本(幕末の老中で佐倉藩主堀田正睦の旧蔵と推測)を見たり、三菱の静嘉堂文庫で、記録に見える伊能図を探索しながら、伊能図探しに引き込まれていった。
 95.3.27. 日経記事(91.2.6.)でフランスに伊能中図がある事を知り観光も兼ね、家内とパリ郊外の所有者イブ・ペイレ氏宅を訪問した。伝来は不明ながら、最高級の伊能中図に驚き、その場で日本への里帰り展示を要請した。
95.4.8. 朝日新聞夕刊「ひと」欄で、私の渡仏調査が紹介される。パリ支局長・清水弟さん(当時)発の第一報だった。この記事から私の伊能図探訪の旅が本格化する。
95.5.上旬 朝日新聞を見た伊能家七代目伊能洋さんの妻・陽子さん(故人)から電話がかかる。 
伊能家のめぼしい史料・地図は、佐原市(当時)の伊能忠敬記念館に寄付してあるが、世田谷の伊能家にも、六代前の忠敬以来伝えてきた地図の断片が少しあるので、見て欲しいとの話だった。
これも運命の電話であった。この電話で伊能家との付き合いがはじまり、伊能忠敬研究会の発足にもつながったのである。電話が無かったら、研究会の発足は恐らく無かったであろう。
95.11.17~19. 佐原市にお願いして、中央公民館でフランスの伊能中図里帰り展を開催する。朝日新聞の清水弟さんが「日曜版」編集長に戻っていて、日曜版紙面で解説していただいた。
日本経済新聞は、文化欄でフランス中図の里帰りを大きく紹介する。NHKもニュースで取り上げ、3日間に各地から3300人が佐原へ集まった。
会場に古地図の専門家を集め検討会を開く一方、安藤由紀子、伊能陽子、渡辺一郎、の三人が中心になって伊能忠敬研究会の結成をきめ、会場で参加を呼びかけた。会報第一号を3月1日に発行する。
96.5.22.「フランスの伊能図を江戸東京博物館あたりで展示したら」と朝日の清水弟さん,朝日OBの雪山(ベルリンの壁崩壊の際の、朝日のボン支局長)さんに奨められる。
96.8.15. 江戸東京博物館に「伊能忠敬展」を提案する。研究会理事の学習院女子部教頭・斉藤仁さん(当時)と同道した。忠敬は深川黒江町から、日本測量を始めたのだから、江戸博は忠敬展をやるのに相応しい、という提案だった。
96.11.20. 江戸東京博物館の担当から伊能忠敬展内定の連絡をうける。朝日新聞社との共催を希望される。当時の国土地理院長野々村さんの紹介で朝日新聞に希望を伝える。
96.12.20. 朝日新聞・清水建宇さん(当時出版局企画担当、のち論説委員)と日本歩け歩け協会・木谷専務理事が研究会に来訪。「歩いて日本を一周する伊能ウォークを考えている。朝日新聞120周年記念事業として提案したい」とのお話。もちろん賛成。
96.12.21. 日本テレビで「人生50歳の旅だち・伊能忠敬」放映される。千葉県提供の45分番組で、忠敬役は渡辺一郎。解説・案内は江守徹。企画段階から協力した。
97.上期 江戸博「伊能忠敬展」実現のため、佐原市の伊能忠敬記念館学芸員に展示物の借用を打診。英国海軍水路部に伊能小図の借用を申し入れ。などの事前交渉をおこなう。フランスのペイレさんにも中図借用の了解をいただいた。「伊能忠敬展」内定をうけて、俳優座も社長から「俺も前から演劇と映画を考えていた」と仲間に入る。
97.9.29.「渡辺一郎著・伊能測量隊まかりとおる」を上梓。この本は日経文化欄の「フランスで伊能中図発見」の記事を受け、NTT出版から申し出があったもので、古巣の人脈とは無関係だった。初版3000部。3800円と高価な本にも拘わらず、評判が良くて2ヶ月で再版、六刷りを重ねた。
97.10.13. 日本歩け歩け協会・木谷専務の発案で、「江戸博・伊能忠敬展」「伊能ウォーク」「俳優座」など、グループ内の気勢を揚げるため、「伊能測量隊まかりとおる」の出版パーティを日比谷のプレスセンターで開く。関係者約150人集合。古巣のNTTデータ―からも、旧友数十名が参加してくれた。
97・10・28研究会員で国会図書館特別資料課長(当時)の鈴木純子さんが「気象庁で最終本伊能大図写本43枚を発見、国会図書館に移管される」と全新聞が一斉に報道した。私は伊能忠敬記念館学芸員と事前の調査を委嘱され、全図を開いて確認したが、素晴らしい伊能図だった。
98・4・10 伊能ウオークの計画が固まる。
○計画内容を朝日新聞一面で発表。
○高輪プリンスホテルで、伊能忠敬展、伊能ウオーク、映画演劇の3プロジェクトのオープニングパーティが開催された。研究会員90名が出席。九州、関西など遠路をいとわない会員が多数参加。関係者が感激。
○伊能ウオークの主催者は、日本ウオーキング協会、伊能忠敬研究会、朝日新聞社の三者共催と決定。 
98・4・16 江戸博の「伊能忠敬展」開幕直前PRのため、英国から伊能小図が137年振りの里帰りと朝日の一面に記事掲載。すると北海道の会員・高木崇世芝さんから連絡があり、「日本にも伊能小図の本州東部がある」という。
驚いて急遽、東京都立中央図書館を調べたら、日本には無いとされていた伊能小図本州東部が見つかった。神州輿地全図という題だったので、分からなかったという。日本経済新聞が記事にした。
98・5・10 都立中央図書館の伊能小図について日経以外の追随がなかったので、図書館から記者発表したいが、と意見を求められる。問題なしと賛成。  
都教育庁は発表し各紙が一斉に報道する。大ニュースとなった。朝日は東京版、その他は全国版だった。日経は既報だったので見送ったが、後で詳しい解説記事を書いて追いかけた。本図は江戸博の「伊能忠敬展」に展示され、会場を盛り上げた。
98・4・21~6・21 江戸博「伊能忠敬展催行。
○同館創立以来の5年間で2番目の入場者があった。
○期間中に併催事業として、忠敬隠宅碑から浅草吾妻橋を結ぶ約10キロのウォーキング&歩測大会を4回開催(日歩協との共催)。ウォーキングコース上に3箇所の歩測区間を設けた。調査票提出者509名、歩測名人6名が誕生した。
○故井上ひさし氏に依頼して講演会を開催。江戸博の講堂は満席。多数の方が床に座って聴講した。
○国土地理院を中心とする測量グループの御尽力で「ミュージックショー・伊能測量と近代測量」を上演。忠敬役は渡辺。近代測量の解説は野々村院長。伊能測量と近代測量を舞台上で対比して好評だった。
98・6・16 NHK歴史番組「堂々日本史」で伊能忠敬を放映。伊能の測量場面を指導し、また出演した。
98・10・31~11・3 埼玉県東松山市の国際スリーデーマーチ会場で、伊能ウォーク本部隊員選考会をおこなう。私は本部隊員選考委員長を務め、伊能ウォーク総隊長に指名された。
99・1・25 伊能ウォークは、大内惣之丞本部隊長を先頭に、出発会場の江戸東京博物館を進発。2年間の旅に出る。
私は主催者代表の一員として、また総隊長として講演、ウォーク式典参加のため、二年間にちょうど40回各地に出かけた。
99・5・23テレビ東京のテレビ夕刊「目指せ伊能忠敬」で小学生の歩測演習風景を放映。撮影指導に出る。
99・9忠敬が青春を過ごした横芝町に3本の記念碑が建立された。忠敬の父の実家・神保誠氏宅前に「伊能忠敬成長の処」碑。父の分家を継ぐ神保弘之氏宅前に「伊能忠敬の父・貞恒生活の処」碑。伊能隊が天測をした宿舎・海保兵右衛門宅跡に「伊能忠敬宿泊地観測地」碑である。海保家は神保家の親戚であった。
99・9・30 「最終上呈版伊能図集成」渡辺一郎、鈴木純子編を柏書房から公刊。平成9年に気象庁で発見された伊能大図写本の全図を集録したものである。
99・11・1 NHK歴史番組「そのとき歴史が動いた」で「伊能忠敬」を放映。撮影指導と出演。
99・12・10~27 俳優座、新国立劇場で舞台劇「伊能忠敬物語」を公演。初めての舞台劇で、初日前に全席完売。(主催 俳優座、朝日新聞社 後援 伊能忠敬研究会、日本ウォーキング協会、佐原市ほか)
00・2・25図説「伊能忠敬の地図を読む(渡辺一郎著)」を河出書房新社から公刊。伊能図だけを説明したはじめての本。好評で初版一万四千部を完売、改訂版六千部を販売中。
00・10・6~11・6 北九州歴史博物館で「伊能忠敬と九州展」開催。主催者「伊能忠敬と九州展」実行委員会(北九州市・朝日新聞社・伊能忠敬研究会・北九州歴史博物館)。
01・1・1 伊能ウォークがゴールし、日比谷公園で完歩式典をおこなう。早朝に川崎を出発したウオーク隊は、竹芝桟橋で隊列を整頓し、朝日新聞前から晴海通りの一車線を使用して、踏破記念式場の日比谷公園野外音楽堂までパレード。出迎えウォーク参加者を含め全隊列は約四千人を数えた。
01・1・3 NHK、お正月時代劇「四千万歩の男・伊能忠敬」を放映。主演は橋爪功、高島礼子。視聴率10.2%。シナリオ、測量、天測、製図場面を監修した。
01・3・31アメリカ旅行中の私は、偶々、アメリカ議会図書館で伊能大図模写本207枚を発見。抜き取りで精査し、伊能大図模写本と確認。帰国後、国土地理院と協議し、日本国際地図学会と協力して学術調査を行うことになる。
01・4・8広島県神辺町に「箱田良助生誕之地」碑が建てられた。箱田良助は忠敬の内弟子で、第七次測量から隊員として従事し、大日本沿海輿地全図完成まで尽力した。のちに御家人・榎本家に入夫して円兵衛と名乗る。累進して旗本・御勘定となった。榎本武揚は榎本円兵衛の次男である。
01・6・18~22 アメリカ議会図書館で日本国際地図学会、伊能忠敬研究会、日本地図センターの合同調査。模写本207枚を全部開いて内容を確認した。
議会図書館地理地図部長エベール博士に「日本で展覧会をやりたい。全部貸してくれないか」と、最初のジャブを送る。エべール博士は目をパチクリ。
「コピーでよいのではないか」
「日本には一部ではあるが本物が残っている。コピーでは話にならない。一部でもいいが、本物が借りられないか」
「それなら可能かも知れない」
「それはそれとして、複製制作の検討もおこなう。サンプルとして4枚分のデジタルデータをいただきたい」
「了解した」
というような経緯があった。毎日、朝から根気よく地図をめくつているメンバーを見て、エべール博士は「熱心だねー」と感心していたが、それに免じてデータ謹呈の約束となったのだろう。
01・7・5 国土地理院関東地方測量部の会議室を借りて、日本国際地図学会、伊能忠敬研究会、日本地図センターの合同記者発表をおこなう。地理院からも部長さんがオブザーバー出席した。
朝日、毎日、日経、産経、東京の各紙一面の大ニュースとなった。朝日は一面トップ、産経は一面で上から下までぶち抜きの扱いだった。読売は社会面の大部分を当てていた。地方紙も一面が多かった。
01・7・6以降 アメリカ大図を中心とする伊能図展覧会を企画し、つぎのような成案を得た。
○博物館展とフロア展の二本立てとする。
○博物館展は新聞社等の事業部門に企画提案する。
地図・測量関係の団体にも声をかけ、実行委員会を結成する。国土地理院も委員会に参加する。
○全図のデジタルデータ入手について、議会図書館・エべール博士に見積もりを依頼する。
01・9・26北九州市小倉の常盤橋際に、伊能測量隊の九州測量出発点を記念して、北九州市の一級測量基準点をかねたモニュメントが建設された。北九州測量協会、地元商店街有志、伊能忠敬研究会九州支部などの募金によるもの。
01・10・10岩手県釜石市大石浜に「伊能忠敬海上引縄測量之地」という記念碑が建てられた。この場所は伊能隊が第二次測量の際、湾口を船で縄を引いて測量したところである。
01・10・20伊能隊が出発の際、必ず参拝した東京深川の冨岡八幡宮に、伊能測量開始200年を記念して、伊能忠敬銅像建立実行委員会の提唱で銅像が建立され、除幕式が挙行された。
建立資金は、銅像建立実行委員会に参加した日本測量協会、日本ウォーキング協会、全国測量設計業協会連合会、日本土地家屋調査士会連合会、朝日新聞社、伊能忠敬研究会、月星化成㈱、日本地図センター、および国土地理院有志の協力により、加盟団体会員および一般から公募した。
富岡八幡宮、朝日新聞社、読売新聞社、佐原市、横芝町、九十九里町からもご拠出をいただき、募金総額は2千2百万円余に達した。制作は彫刻家酒井道久氏(埼玉県立大学准教授)、監修は伊能洋氏である。
01・11・17俳優座で製作の映画「伊能忠敬―子午線の夢」を東映系136館で公開。こちらはあまり成績がよくなかった。
01・12・13 日本テレビの番組「知ってるつもり」で、ワシントンの議会図書館へ伊能大図発見模様の取材ロケ。当初、日テレからの要請に対し、保存状態が悪いことを理由に了解が得られなかった。 
私は地図借用の交渉もしたいので、単独でも渡米の意志を固めたところ、日本テレビも現地解決を期待してアポなしでロケを実行した。
当日はエペール博士の判断で撮影が認められ、終了後に、博士より展覧会のために全図無償で貸与可能という図書館側の正式な回答が伝えられた。博物館展の開催が固まった瞬間である。
01・12 中日新聞社、共同通信社、日本地図センター、国土地理院、日本測量協会、全国測量設計業協会連合会、日本土地家屋調査士会連合会、日本ウォーキング協会の代表に集まっていただき、関東地方測量部会議室で「アメリカ伊能大図展」の準備会合を開く。
02・1・27 日本テレビ「知ってるつもり」で、アメリカ・ロケの内容をまとめた伊能忠敬を放映。視聴率12.1%だった。
02・2・27地理院からの情報で、佐倉の国立歴史民俗博物館の伊能大図写し三四、三五号を調査し、アメリカ伊能大図の欠本であることを確認した。国土地理院堀野測図部長、根本課長、歴博の青山准教授、渡辺、鈴木純子さんが同行。三月一一日記者発表した。
02・3・12アメリカ伊能大図展第一回実行委員会開催。会則をきめ、委員、幹事を決定。会長:日本地図センター大竹理事長、委員:国土地理院星埜院長、日本測量協会中川会長、全国測量設計業協会連合会鈴木会長、日本土地家屋調査士会連合会西本会長、日本ウォーキング協会岡野会長、中日新聞社社長、共同通信社社長、委員事務局長:伊能忠敬研究会 渡辺代表理事。展示構想について種々討議。
02・3・27博物館展についてNHKが名義共催者となる。小学館から渡辺一郎編『伊能忠敬測量隊』の執筆依頼される。武揚堂から『原寸複製伊能図』(編著者:清水靖夫、長岡正利、渡辺一郎、武揚堂編集部、)刊行。
02・4・19 中日新聞社鷲見文化事業部長に要請し、ヨーロッパ訪問の帰路、議会図書館に立ち寄って専門家として具体的な確認をお願いした。
○地図は無償で貸与する。貸与先は国会図書館がいいと思う。貸与先を共同通信社とすることに難色。新聞社等が展覧会事業をやることが理解できないと。
○デジタルデータ化作業は進めている。しわ伸ばし作業は、百枚終っており、スキャニングを始める。一○月には終るだろう。
○輸送は、そのつどクーリエ便によりたい。
〇三年秋からの開催は難しいだろう。
02・5・8伊能洋・浅井京子・ふみさんのチームにより、無着色の大図サンプル(167号広島)の着色実験を終った。朝日の東京版がカラーで紹介した。
02・5・9第二回実行委員会幹事会を国土地理院で開催。鷲見報告を確認。借用責任者は国土地理院とし、実務は共同通信が扱うことにする。デジタル化費用は国土地理院が地図センターに委託して、実行委員会名義で支払うことになる。
02・5・25北海道の高木会員の通報で、伊能忠敬の重要書簡が「大阪古書展へ出品」と判明。偶々来合わせた産経新聞が、第二社会面で大きく取り上げ話題になった。
手紙は忠敬から親戚一同に当てた「娘・イネの勘当赦免状」で、勘当が実際にあったことを証明する書状の発見だった。新聞効果で多くの応札があったが、最低希望額に達せず出品者に戻ったという。
02・7・中旬 またまた伊能忠敬書状など22点250万円が古書市に出品されて驚く。伊能、伊藤、安藤の各氏に共同通信の記者と一緒に調べてもらつたが、新発見と云えるような史料はなかった。
02・8・5 東京国立博物館の佐々木室長よりの依頼で、同館で発見したという伊能小図三枚を実見調査する。伊能忠敬記念館の紺野学芸員も同席だった。高橋景保から昌平坂学問所に謹呈された三枚揃いで、ボロボロだったが、内容は全く問題なく、イギリス小図とよく似た小図だった。針穴も鮮明。大発見だった。
02・8・8 東京清瀬市・織本病院の織本先生、企画中の演劇「伊能忠敬」の打ち合わせに来室、秋に病院劇として上演された。  終って東博の記者発表会場へ。説明は東博の佐々木室長と私。取材は読売、朝日、毎日、道新、東京、共同、時事の七社。TVはNHKとフジTV。NHKは7時のニュースで放送した。
02・8・9 東博発表の各紙反応は次のとおりで、予想外の好評であった。
産経=題字下にカラー写真。第二社会面上段に大きく。
日経=第二社会面にモノで大きく扱っていた。記者は来なかったが、文化部の編集委員から、こういう話はうちにも連絡してよ、とクレームがあった。
朝日=第二社会面モノ。正確な記事だった。
読売=題字下に一面カラー。読売だけが学芸部扱いで、他は全部社会部扱い。
東京=一面にカラー。実行委員会メンバーでもあるが、よく頑張った感じ。カメラは一番乗りだった。
毎日=一面にカラーで、第三社会面に引っ張り。署名原稿。
02・9・5東京国立博物館宮島企画部長にアポを取り、伊能忠敬展の企画書を提出する。東博では伊能小図の修復完了のお披露目をやる計画があるので、これとつなぐ可能性を探るため、共同通信が各博物館に渡している企画書をアレンジして持参した。
国土地理院の小出部長と同行。東京会場の選定が行き詰まっており、星埜国土地理院長は東博実施にこだわっているので、一案を持って偵察に出かけたのである。東博展は仕込みが大変と新聞社は及び腰だった。
その後、収支を検討したらと、展示構成の詳細資料などを提供したが、話はまとまらなかった。
02・11・27米国の伊能図データの到着が遅いので、地図センターの前野部長に協力金を持参、渡米して交渉してもらうよう決定。28日にメールを送信する。
02・12・4エペール博士よりメール。43枚すでに完了。年内に77枚予定。前野訪米歓迎と。この訪問でデータ入手はスムーズになった。
03・2・28「伊能忠敬銅像建立報告書保存版」を全国の主要公共図書館に295冊発送。銅像建立委員会の仕事を終わる。百通近い礼状が到着した。
03・4・2星埜地理院長と関東地測で打ち合せ。東博で伊能図展が出来ないか、資金を分担して東博が秋にやる昨年発見の伊能小図展と合流の可能性がないか、という相談である。
偶然であるが、同じ日に地理院の小出部長に対し、中日、共同から、東博では今年秋に平成館の半分を使って伊能図展をやる計画がある。そこにアメリカ大図を無償で貸してくれないかという相談があったという。
03・4・22実行委員会開催。東京国立博物館の「伊能図と伊能忠敬展」への協力を決め、関係先への折衝は国土地理院と共同通信社でおこなうこととする。
フロア展は、東京から大阪辺まで約60枚を平成館ロビーに展示することになり、伊能洋グループで緊急作業で着色を進めることになった。
03・5・7~6・3 私はフランスのイブ・ペイレさんの伊能中図借用依頼を兼ねてフランスへ旅行。フランス中図借用は簡単に了解を得たが、大分傷んでいて展示に耐えないものがあり新たな問題が起こった。
03・6・9 帰国早々星埜地理院長と打ち合わせ。これまでの状況を確認し今後の方針を協議した。
フランス中図の修復については、名案がないので、マスコミを通じて呼びかけることにした。
03・6・11 共同通信の橋田記者から電話。「何か面白い話はないですか?」。勘がいいねと、ビックリしたが、フランス中図がボロボロで展示が難しいことを話す。うちにやらせて下さい。直ぐ伺いますと事務所に来室。その場で原稿を書いて事務所から送信。
03・6・13東京新聞、京都新聞、神戸新聞など地方紙の一面にカラーで大きく紹介。朝日新聞の清水記者からも電話。「これは何とかしなければならない。朝日でも書こう」といってくれる。お出でいただいて事情を説明、タイミングを狙うことになる。
03・6・16京都の日本写真印刷㈱の岩村部長来室、ペイレ中図の無償修理を申し出られる。はじめ、売り込みかと思ったが、改めて詳しくお話を聞く。
03・7・2~3共同通信の坂本事業部長より電話。議会図書館の担当者は照度30ルックスを固執しているので、駄目なら断念と伝えたいので、幹事会を招集して欲しいとの要請を受ける。
時間がないので、大竹会長を訪問、渡辺から各幹事の了承をとり持ち回り幹事会とすることを提案。
旅費を実行委員会で持ってもいいから押しかけて交渉すること。最後通告ではなく、「是非やりたいので、ルックス制限の緩和を了承して欲しい」という姿勢を貫くこと。先方もつぶれては困る筈だ。勝率は半分以上ある。
以上の趣旨で星埜地理院長および各幹事の了解を得て、共同通信に指示する。
03・7・8 家内同道し日本写真印刷㈱を訪問。広大な敷地を持つ大規模な印刷会社だった。地図修復の作業工程などの説明を受け、納得してお願いする。
03・7・10 共同通信社木村氏より、アメリカ側が50ルックスを了承したと連絡がある。奇跡が起こった。これで博物館展は成立する、一館数枚宛でもいいから、枚数を削減してまとめるようにアドバイス。伊能イベントには、日写の件といい、朝日新聞の応援といい、こういうことが多い。
03・7・29 渡辺一郎編著『伊能忠敬測量隊』刊行。
03・8・11伊能大図着色の「色あわせ」を地図センターでおこなう。作業は画家が分担しておこなっているので、どうしてもバラツキが出る。並べてみて修正しようというのである。星埜院長、渡辺、伊能夫妻ら関係者出席し、朝日新聞、共同通信が報道した。
03・8・28石川県那谷寺訪問。会員の河崎さんと同寺が所蔵する伊能図の沿海地図小図写本を実見調査する。出入りの造園業者が寄付したもので、業者の先祖は大聖寺藩の検地奉行だったという。この図は丁寧に作られた写本だった。共同通信と北国新聞が同行し報道した。
03・9・22東博で伊能小図修復完了の記者発表。星埜院長と私も出かける。翌日の朝刊では東京新聞が一面にカラー、朝日、読売が第二社会面だった。東博「伊能図展」の前宣伝としてはまずまずだった。
03・10・27東博の伊能大図フロア展、大図60枚を展開する作業を記者公開。星埜院長、渡辺、伊能夫妻立会い。翌日朝刊では、日経が伊能夫妻を取り上げていた他は、共同の情報を地方紙が数紙乗せたのみで不発。このあと、読売が「顔」欄に伊能洋さんを取り上げた。
03・10・30東博「伊能忠敬と日本地図」内覧会。大徳寺展と併催なので、ものすごい人々々。セレモニー終了後、私はすぐ展示場に入り、NHKの海老沢会長に挨拶した。 
その場で、大河ドラマに伊能忠敬を取り上げるように要望する。「佐原の鈴木市長に頼まれてネー」と、お正月時代劇で忠敬をやった楽屋を話し出す。
「その劇の考証に私は20日間も付き合いましたよ」と応じる。話の様子では、伊能忠敬研究会のことは知っていたようだった。
03・10・31東博「伊能忠敬と日本地図」展開幕。朝日が「ひと」欄に星埜院長を紹介してくれた。昨日は記者があんなに多数いたのに掲載紙なし。朝日新聞だけだった。
03・11・17 家内同伴、関西空港で、伊能中図を持参して来日されたペイレ夫妻を出迎える。ゲート到着から読売テレビがフォローした。  早速、伊能中図の破損状況を確認したあと、南禅寺の料亭で日本写真(株)主催の歓迎会。
03・11・18 ペイレさん記者会見。渡辺から出席者紹介のあと、ペイレ中図の発見経緯、伊能図の中の位置づけ、修理方法の説明と現物を報道公開した。
テレビはNHK京都、京都放送、読売テレビ、NTV系列のドキュメントと4本であった。
新聞社は、朝日、毎日、京都新聞が地元版で詳細に報じ、日経、産経、東京が共同経由のニュースを全国版に掲載した。
03・11・26 アメリカ大図展実行委員会。各地のフロア展続々固まる。(東博の伊能展の最終入場者は博物館の目標10万人を上回り、132,558人となった)
03・12・2 イブさん夫妻を東博に案内。そのあと、上野東天紅に移って食事。その際、ペイレ中図を譲渡していただく場合の条件を覚書として整理した(譲渡意志の確認を目的としたもの。残念ながら価格が入っていない)。覚書は後日清書し夫妻のサインを貰う。
03・12・8 イブさん夫妻を国土地理院に案内。院長、参事官、情報管理課長、広報室長ら出席して歓迎昼食会。あと院内見学と記念撮影。
04・2・5 ペイレ中図の修復が完了し検収。デジタル化のための撮影現場を公開する。一枚を数億画素、撮影時間で20数分露出するスキャナータイプの装置だった。 
日本写真では美術品複製のため導入を考えていたところ、たまたま伊能図修復を募る報道があって手を挙げていただいたようである。
私は「これまで伊能図は近づいて見ることが出来なかったが、完全複製ができるようになって身近で研究ができるようになった」とテレビコメント。
04・2・24 実行委員会開催。博物館展の要領がきまる。フロア展に、釧路、武蔵大学、日大文理学部の追加を承認。
04・3・15 ペイレ中図修復完成披露とペイレ図の評価鑑定。渡辺、国際古地図コレクター協会日本代表の建築家・山下和正教授、会員の鈴木純子さんと全8枚の修復内容を最終確認。報道公開。
04・4・13 米国議会図書館エベール博士、アジア部の大田さんが、日本地図センターの招待で来日。14日国土地理院で記者会見。15日は東京国立博、国会図書館見学。東大の学士会館で日本地図センター主催の歓迎会。
04・4・16 神戸市立博物館オープニング&内覧会。エべール博士挨拶。日本写真の現物大複製も展示。夜、研究会関西支部集会を開く。
 04・5・11 鈴木純子さんと海上保安庁海洋情報部で伊能大図の調査をおこなう。未発見の四枚が全部海洋情報部にあることを確認。
国土地理院矢口参事官に連絡、海洋情報部への働きかけをお願いする。矢口参事官は18日、関係官をつれて実物を見学し、発表の方針などを海洋情報部と取り決めていただいた。
04・7・1 最後の伊能大図4枚の記者発表会を海洋情報部で開催。主催は伊能忠敬研究会、説明は渡辺と鈴木さん。同席:海洋情報部 渕上専門官、国土地理院 関崎技術専門員。
事実上の合同記者会見だった。全国紙の朝日、読売、毎日、日経、産経、共同、時事、東京のほか北海道新聞が参加。テレビはNHKのほか、民放5社が全部来てくれた。翌朝の紙面、朝日、読売は社会面ド真ん中の一等地だった。
04・7・13伊能忠敬研究会創立10周年記念行事として、15日から3日間の釧路・ニシベツツアーを計画し25名の参加が決まっていた。そこへNHKから私に、釧路の大図フロア展を「ニュース10」で取り上げたいので、早く釧路入りするよう要請が入る。二日早く先発。着後、伊東市長、教育長に挨拶し報道の段取りを打ち合わせる。
04・7・14 大図の展開作業を報道公開。作業は井上実行委員長の会社のメンバーが主力。新聞社は、共同、時事、北海道新聞(以下道新)、朝日、読売、毎日、日経、釧路。テレビはNHKの他に民放5社が参加した。
4日間の期間中の来場は22,739名に達した。釧路市が最初に手を挙げ、大図の全図展示と聞いたとき、後続のフロア展のために、是非成功させたいと考えたが、関係者の多大な御協力で見事に成功した。
04・7・15 釧路プリンスホテルで東京からの一行と合流。ニシべツヘ。第一次測量記念柱の除幕式。釧路から八幡生涯教育部長、福島北海道地方測量部長、古谷実行副委員長と地図センター野々村理事長出席。
丹羽期成会会長と渡辺が挨拶、神事、町長挨拶。あと別海温泉ホテルで祝宴。テレビはNHK、札幌テレビが取材。釧路に帰り釧路市長の招宴。
04・7・16大図展オープニングの式典。市長、伊能洋氏挨拶。ツアーの一同は、フロア展見学のあと、厚岸、霧多布を廻って宿舎の釧路プリンスホテルへ。
04・7・17会員は屈斜路湖、摩周湖、阿寒湖へ。渡辺と伊能陽子さんは、全日空ホテルの「講演とシンポジューム」に出席。司会は野々村氏。パネラーは渡辺、伊能、伊東市長ら。
04・11・17 アメリカ伊能大図展終了にタイミングを合わせて、日本写真印刷㈱がフランスの伊能中図を譲受けることが決定。京都で記者会見をおこなう。
アメリカ大図展は、実物を展示した博物館展4館、実物大の巨大複製図をフロアに敷いたフロア展が十六か所で開催され、東京国立博の入場数を加えると、観客動員数は、約三九万人だった。大成功である。
 そして、フランス中図は国内に買い戻された。現在京都の大谷大学に暫定寄託されている。
06.2.4 日本ウオーキング協会の会議室を借りて、伊能大図総覧の刊行を新聞発表。同時に、世田谷伊能家が継承してきた世田谷文書が「世田谷伊能家伝存伊能忠敬関係文書目録」とともに佐原市長に寄贈された。佐原市長から私を含め三人に表彰状が渡された。
読売は第二社会面中央に囲みで、大図総覧の刊行を報じてくれる。
06.11.17 大図総覧出版が迫った十一月になって、朝日新聞夕刊で、社会面の漫画の隣の一等地に大図総覧出版のことを書いていただいた。
06.12.下旬 大図総覧刊行。三九、九万円という高い本なのに注文が続々入る。
07・1.10 河出書房、大図総覧完売と発表。
07.1.22-24 海上保安庁が所蔵する伊能図模写図147枚を、大図総覧をベースに、伊能忠敬研究会と海洋情報部で合同調査。伊能図の特色をそのまま再現する最高レベルの原寸模写図3図のほか、良質な色彩模写図が多数発見された。
07.2.2 海保大図について記者発表。
07.秋頃 大図総覧のデジタルデータをベースに、第二次伊能ウオークと連携する完全復元伊能図フロア展の検討をはじめる。
09.4.9 伊能ウオークは「ウオーク日本一八○○」に変身したが、伊能図展は深川スポーツセンターで「完全復元伊能図フロア展」として開催。入場者は四日間6000人だった。
2010.3.19 伊能忠敬記念館蔵の伊能忠敬関係資料2345点を国宝に指定するよう文化審議会が文部大臣に答申と報道。東京国立博が展示会指定史料の展示を企画した。
10.5.3 天皇陛下、東博の国宝予定の地図展を見学される。
10.5.4 有志の協力を得て「伊能忠敬と伊能図の大事典」をHP上に制作し、イノペデイアと名前をつけて公開し新聞発表した。
10.6.29 伊能忠敬記念館蔵の伊能忠敬関係歴史資料2345点が国宝に指定された。
10.7.16 伊能研の総会で、伊能忠敬研究会制定「忠敬賛歌・確かな一歩」が披露された。朝日新聞東京版に掲載。
12.2.12 伊能忠敬関係資料国宝指定記念・伊能忠敬研究会創立15周年記念祝賀会を香取市の開花亭で開催。国県市会議員、関連自治体の首長さんなどの来賓と会員、伊能忠敬子孫他百二十一名が集まって祝意を表した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
     



  • RSS1.0  RSS2.0