見出し画像

ブログ katsukazan/活火山★時々の四方山話

調べてみたら、明治維新後立憲君主制下、100代目が岸田総理だった

▼▼▼
1868年明治維新によって、始まる明治時代は、憲政体制に移行した時代であり、「明治」は憲政上最初の元号 、コレ常識。

初代総理大臣は、伊藤博文であるが、初代総理大臣在任期間をみれば、
明治18年(1886年)12月22日~明治21年4月30日/在職日数861日という記述があるので、明治維新後の第1回帝国議会    1890年(明治23年)11月29日であるので、帝国議会が開かれる5年前に初代総理大臣が任命されたことになり、まさに「宰相」であったことが理解できて、

ちなみに帝国憲法発布は明治22年(1889)2月11日 なので、維新で明治になり、即、江戸を東京して、遷都して、明治政府は明治天皇の親政政治はじまったような印象になるが、こればバツです。

ただ、かっての宰相としての総理大臣を含めて、第100代目が岸田文雄総大臣でしたデス。


▼▼▼
以下の記述があります。

明治維新に際して武蔵国江戸が東京と改称され、都(首都)として定められたこと。京都(平安京)との東西両京としたうえで、慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された   出典:ウィキ

つまり、「政府」という概念も明確ではなく、政権内部の組織も曖昧で、そこに維新の功労者である勝ち組が明治天皇間近の場所で、いうなれば、徳川政権の幕閣同様の、体制で、幕臣の代わりに維新の功労者が日参したにちがいない。
序列と、ある程度線引された職務、例えば、会計勘定方、軍奉行、国務、警察の責任者とて、髷を切って、洋服を着ての町奉行的世界であったとも想像できそうだ。


▼▼▼
彼等が日参し、集まって現在の閣議のようなスタイルでの政務遂行のプランを検討し、複数案を、天皇陛下に上奏して、決済を仰ぐといったスタイルが、22年か23年まで試行錯誤して行われ、第一回帝国議会が招集されて、基本スタイルが走り出したということのなる。

日清戦争で清国の当時東洋で第一級の近代海軍艦隊である北洋艦隊が、黄海海戦で壊滅されたのが、1895 年ですので、維新後27年です。
この間、1874年に台湾出兵がありそれまでの間には西南の役がありで、すくなくとも、侍系日本人の兵士が陸海軍で多数組織化されておって、世界トップ3の大国である清国の北洋艦隊に完勝した学習経験が、義和団事件、日露戦争、第一次世界大戦までの勝利に貢献したのかもしれない。

 

▼▼▼
あれから104年が経過、この間、勝利経験を実感した日本人がいなくなったことの弊害はあまりに大き過ぎるような気がしてなりませんデス。
中、高校教科書ではこの辺に下りは、少なくとも歴史マニアの記憶では、授業で完全にスルーしているはずです。

かくて「由らしむべし、知らしむべからず」が定着し、少しばかり、便が立ちそうな、口だけ番長が、小賢しい発信をれば、それで言論人、ジャーナリスト、言論人になり、何かに集会で官憲にイチャモンでも付けらた暁には、活動家にならべられるという世界であったようだ。

だから日本のメデイア人は元々、生産的な存在はなく、能書き先行で、新聞を売るために、犬を噛むゲテモノ人間を探しまわり、やがて、ミイラ取りがミイラになる例え通りに展開になったとみれば、その周辺の空気は読めて来そうな気がします。


名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Formosa(台湾)にて」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事