人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

ゆるされている生命(4)

2023-01-03 09:07:02 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
祈りの場というものは、人間が作るように思う
けれども、本当は、人間というのは見えない
ところで祈って祈って祈り抜いてる。
自分が意識しようとしまいと、本体というのは
ずっと祈りの座についていて、自分というのは
神界にいて、光になって祈ってる。
神界にも自分自身がいる訳ですから。
そうして、御心と一体になって、こっちに
光を送ってる。
こっちからも光を送ってる。
光の呼びかけ合い、呼び合いをやってる
訳です。
呼び返しの中で我々は生きてる訳なんですね。

それは何の光かというと、ゆるしの光
なんですね。
だから罰も何も無い。
罰を当てるとか当てないとか、そんな狭苦しい、
そんないい加減な世界じゃなくって、
その光のシャワーを浴びてる時というのは、
人間は本当に自由になってる。
本当に神の御心の中に入っている自分自身に
なってる。
それは、自分が意識しようとしまいと
そうなんです。
そうやって人間というのは生きているんですね。
ちょうどこの我々の肉体というものが、飲んだり
食べたり眠ったり、ある程度動いたりしないと、
この肉体の生命を保っていけないように、
我々の奥の複雑な霊妙な体というものは、
神様の光を受けていかないと生きていけない。

これは随分と申し上げて来たことですけれども、
その光というものは何から出来ているかというと、
ゆるしから出来てる訳ですね。
あるいは愛から出来てる訳です。
愛とゆるしというのは何処から出てるかというと、
神様から分かれて来ている生命である人間に
対する、極まりの無い愛なんですね。

それは、我々がこの地球に降りて来た時は、この
地球を、神様の御心に従って、神様の御心が顕現
されるような、そういう方針にするべく、我々は
ここに降りて来て、やってた訳なんだけれども、
それが、霊性が働いている間はよかったけれども、
だんだん肉体を被っていく内に、それを
忘れちゃって、人が霊止にならなくなって、
つまり、霊止まるという霊止(ひと)の方を忘れて、
人間の人(にん)という、そっちの方の肉体の方の
人だけが残っちゃって。
だけど消えてはいないんです。
霊止というのはね。
何故かというと、霊が無ければ我々は生きて
いない訳ですから。
ただそれが何か、我(が)の世界の中に今は
なっていて、それが押し込められてる感じ
なんですね。
その押し込められてる、ちょっとしか顔を
覗かして今は生きていけない、息が出来ない、
その状態を何とか解きほどいて、解き放ってやって
いかないと、今はもう地球も大変だし、自分自身も
大変だし、世界人類も大変だし、ひいては宇宙も
大変だしね。
人間だけじゃない宇宙生命そのものだって
大変なんです。

という時に、じゃあ、その全部の生命を健やかに
柔らかに、有るがままの有りのままの生命を
宣り出そうというその祈りというのは、
「世界人類が平和でありますように、日本が平和で
ありますように、私達の天命が完うされますように、
守護霊様守護神様ありがとうございます」
というあれなんですね。
あれで全部救われていく訳なんですね。
だから、あの祈りというものは、大変な光明体
なんです。
その光明体を我々は持ってるんです。
それはただ単に、白光の人があの祈りをするから
救われるとかそういう事ではなくて、元々の
神様の御心を祈り言にしたらああいうことになる。
そうして、その元々の神様の御心の光そのものと
いうのは、どんな人の中にも、例えば無神論者の
人の中にも、物質主義者の人の中にもね、
皆入ってる訳なんです。
            (つづく)