(前日からの続き)
重荷を重くするのが神様じゃない。
重荷を軽くするのが神様なんです。
ですから、今どんなに打ちひしがれてる人でも、
どんなにどうにもならないと思ってる人でも、
どうにもならないと思ってることが、それが
消えてゆく姿なんですよね。
どうにもならないというのは、だから、それを
押し込めるんじゃなくて、自分は白光の教えを
聞いてるのに何でこんなんだろうと責めるんじゃ
なくて、あーそうなんだ、消えてゆく姿なんだと
思って、そして、それを思いっきり出して、
泣くなら泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して消して
いただいて、そしてまた生命をいただいてね、
ゆるし放しの愛と平和の元の神様というものに
礼拝をし直して、いただき直しの生命で、毎日を
明るく生きていくということが、一番我々が
この困難の中から救われていく大元の元になって
いく訳なんです。
そこを赤子のように信仰してゆきますと、絶対に
神様というのは我々をいやな所に変な所に導いて
いかない。
必要なものは下さる。
絶対に下さる。
この生命というものを使って下さる時がある。
その使われ方というのはどういう使われ方を
するか分からないけれども、とに角、神様と私は
一体の生命であって、一筋の生命であって、その
一筋の生命というのは、何の滞りもない朗らかな
何の障りもないものなんだということを確認できる
時に、我々というのは解き放たれていくんです。
その確認というか、それを肉体の我というものに
染み込ませる。
そうして、霊肉共に救われていく、その祈りが、
世界人類が平和でありますようにという
世界平和の祈りなのでありまして、この光の
祈りというものは、益々これからいろいろな人に
覚えられていく祈りだと思いますけれども、
私どもは益々謙虚になって、この祈りのもとに、
神様の愛を仰いですすんでまいりたいと思います。
昭和63年6月13日
五井 昌久
重荷を重くするのが神様じゃない。
重荷を軽くするのが神様なんです。
ですから、今どんなに打ちひしがれてる人でも、
どんなにどうにもならないと思ってる人でも、
どうにもならないと思ってることが、それが
消えてゆく姿なんですよね。
どうにもならないというのは、だから、それを
押し込めるんじゃなくて、自分は白光の教えを
聞いてるのに何でこんなんだろうと責めるんじゃ
なくて、あーそうなんだ、消えてゆく姿なんだと
思って、そして、それを思いっきり出して、
泣くなら泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して消して
いただいて、そしてまた生命をいただいてね、
ゆるし放しの愛と平和の元の神様というものに
礼拝をし直して、いただき直しの生命で、毎日を
明るく生きていくということが、一番我々が
この困難の中から救われていく大元の元になって
いく訳なんです。
そこを赤子のように信仰してゆきますと、絶対に
神様というのは我々をいやな所に変な所に導いて
いかない。
必要なものは下さる。
絶対に下さる。
この生命というものを使って下さる時がある。
その使われ方というのはどういう使われ方を
するか分からないけれども、とに角、神様と私は
一体の生命であって、一筋の生命であって、その
一筋の生命というのは、何の滞りもない朗らかな
何の障りもないものなんだということを確認できる
時に、我々というのは解き放たれていくんです。
その確認というか、それを肉体の我というものに
染み込ませる。
そうして、霊肉共に救われていく、その祈りが、
世界人類が平和でありますようにという
世界平和の祈りなのでありまして、この光の
祈りというものは、益々これからいろいろな人に
覚えられていく祈りだと思いますけれども、
私どもは益々謙虚になって、この祈りのもとに、
神様の愛を仰いですすんでまいりたいと思います。
昭和63年6月13日
五井 昌久