人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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五井先生と呼んで下さい(2)

2021-03-22 22:33:52 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
会館でやってた最初の頃に、皆熱心でしたよ。
皆くい入るように話を聞いてくれてね、
最初の白光の人たちは。
今の人たちが駄目だというんじゃないですよ。
本当にくい入るように聞いてくれたけれども、
あんまり深い話をし過ぎるとくたびれちゃってね、
みんな。
とっても私はできないわとかね、思っちゃうから。
だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、
ある時は八百屋になったり、それから、本当に
落語家じゃないかというくらい軽口とばして、
そうして、ふーっと気がついたら神様のことを
考えていたというふうにもっていく。
これ方便なんですね。

で、その時々によっていろんな話し方をする。
さっきの私と今の私と違うのかといったら、
違わないんですよ。
全然違わない。
だけども、とにかく機をみてね、人をみてね。
人をみて法を説けというでしょ。
あれと一緒なんですよ。
その時々その場相手によってさっきのような
しゃっちょこばったああいう講演口調の、
ねばならぬ存じます式が通じる時もあるんです。
そうじゃなくて、こりゃあもうそんなこと
言ったら逃げ出しちゃうなあという場合は、
こういう口調もあるんですよね。
どれも五井昌久。
どれも神様。
神様といったって、私が神様じゃないですよ。
そうじゃなくって、神様がいろんな働きを
こうやってなさるということの証しをここで
やっているようなもんだね。
そうじゃなきゃ、こんな講演会なんか
やりませんよ。
そんな無駄なことを神様はやらないと思いませんか。
本当にそうですよ。
やっぱり誰かに聞いて欲しいという気持ちが
皆あるでしょ、皆苦しいから。
聞いて欲しいといっても、吸いとり紙のようにね、
自分というものをさしはさまないで、深く
うなずきながらね、ああそれは大変ですねえって
聞くというのはこれは大変なことよ。
実際に。
絶対に自分が出るもの。
そんなことはあなた言うけれども、私の経験
によればということになるよね。
なるけれども、そこは本当に難しい。
                (つづく)