人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

宗教界における入信表彰の意味について

2012-04-15 10:30:45 | スピリチュアル
 (問)入信10年20年30年表彰について
ですが、宗教の世界での表彰ということは
いかなる意味があるのでしょうか。


 (答)まあ人間というのは誉められたら
嬉しくって、貶されたらこの野郎って想うのが
人間でね。ただ一つの、何か白光なら白光
というものを信じて、おめでとうございます
というのはおかしな話なんですね。10年で
あろうと5年であろうと1年であろうと、
変わりはないんですよ。確かに変わりは
ないんです。

 ところが、何か人間というものの性格の中には、
例えば5年とか10年とかいうのは一つの区切り
でしてね。そこで大きな変化があっても無くても、
人に誉められなくてもですよ、そこで10年
来たなあとか、どこかで振り返ると。
 例えば、20の人が30になった時にね、
やっぱりああ30になったなあという感慨がある
と思うんですよ。そこでやっぱり振り返るん
ですよね。その振り返る時に、自分の一人だけの
想いに浸るとか、自分勝手に一人よがりに
振り返るというのは、なかなか人間って
弱いんですよね。出来にくいんです。しかも
信仰なんていうものは、それぞれ神様の話を
しても、幽体霊体は別として肉体の世界に
生きている我々だったら、色んな生活をしている
人がいますし、色んな環境に生まれている人が
あるから、神様は愛ですよと言ったって、愛の
受けとり方が人によって違うんですよ。愛ですよ
と言ったってなあと思う人だっているし、そりゃあ
その通りだと思う人だっているし、その人の状況
によって皆違うんですよね。

 それでもみんな、白光はいいなあと信じて
下さって、あるいは他の宗教でもいいですけれど、
そこで何年か来た時に、自分の信仰の歩み、自分が
神様というものに出会って何年か来た、そういう
事に対する一区切りが来た時に、こちらの方から
ああ10年経ちましたねご苦労様という、あるいは
表彰状は出さないけれども、1年経ちました
ご苦労様、50日経ちましたねご苦労様というのは、
こっちから幾らでも言っているんですよ。毎日
言っているんですよ。でもそれで表彰状を出して
いたら、紙が幾らあっても足りません。白光が
破産しますからね。一応5年なり10年なり
区切りをつけてどっかで振り返りたいと思う時に、
あんな時に拍手なんかされたら面映ゆいし
気恥ずかしいし、そんな事いやだと思う人は
沢山いるしね、又そう思う人の中にも、自分なりに
10年振り返り、表彰状をもらわなくても、ああ
俺も10年だなあ、私も10年だなあ20年だ
なんていう人も一杯いると思うんですよ。

 要するに、自分が神様に出会って、その後どう
だったかというのを振り返る場合に、自分一人で
振り返るというより、ああいう中で皆の中で
振り返ると何がいいかというと、皆の守護霊さんが
一緒になって祝福しますからね。本当に
そうなんです。あそこにいる人たちだけじゃなくて、
それこそ白光の一万何千人の人達の守護霊
守護神さんね、その人達のご親族や、本当
世界人類の守護霊さんが、良かったですね一区切り
ですね、〇〇さんご苦労様でしたというのを後ろが
言うんですね。後ろが言って励ますというね。
 それは別に聖ヶ丘に行かなくても、表彰を
出さなくても、こちらから幾らも言ってますし、
あの人は10年だなあ、この人は20年だなあ、
次の年で10年だなあと判る訳です。こっちからは。
 誰かさんみたいに出さなくっても、あそこに
行った人も行かない人も、皆同じように、
守護霊さんが皆寄って良かったですねと肩を
たたいている訳ですね。

 人間というのは、ああいう中で拍手されると、
ああ自分も来たか、こんな晴れがましい所だけど、
という想いが湧きあがって、又新たに神様の
愛の下やっていこうという区切りがつきますよね。
 そういう意味で、励ますという意味であって、
10年の人を30年の人を特別にして、その人達
だけがおめでとうじゃないんですよ。一日の人
だっておめでとうございますですよね。本当に
そうなんです。ただ、そうやっていたら、
皆がみんなやっていたら本当にどうにもならなく
なっちゃうんで、ああいう形にして
ありますけどね。

統一の仕方について

2012-04-14 10:21:31 | スピリチュアル
 (問)統一についてですが、昔五井先生が、
ふんわりととテープでおっしゃっておられますが、
今、講師の先生方の中には、それだけでは
駄目だと、もっと、なんて言いますか…、自力
ではないんですが、もっと光を描いてというか、
そういう風に具体的に指示される方が結構
いらっしゃいますが、その辺はどうなんですか。


 (答)それは正論だとも言えるし、そうじゃない
と思う面もありますね。
 で、正論だと思うのは、大きな意味から言えば、
正論そのものなんですよね。何故かというと、人間
というのは光そのものなんですよ。
 ですから、自分が光そのものだ、神様の子供だ、
神様から来ている生命だということに気がついて、
そこへずっと本心に呼びかけてゆけば、何でも
出来るんです。人間というのは、全知全能の神の
流れを受けて生きているものですからね。

 ところが、色んな現実などにぶつかっていったら、
なかなか人間の神性を引っ張り出すってことは
出来ないんですよ。ですから、南無阿弥陀仏があり
アーメンがあり、私の世界人類が平和であります
ようにという祈りがあって、消えてゆく姿がある
訳なんです。私が生きている時には、全部引き受け
ますからふんわりしていらっしゃいっていうのは、
それは変わりないんですけれどもね。
 ただ人類が本当の意味で進化していく為には、
みんな本当に光輝く本心をもっているんだ
ということを、一人一人が強くどっかで感じて
信じていかないと、いくら私が本の中でいい事を
言っても、原稿に書いても、ああいい話だけど
私には出来ないなあと思ってしまうと、そこで
成長が止まるんですよ。そういうものが自分の
中にもあるんだなあ、光の粒が自分の中にも沢山
入っているんだなあ、神様というものがつまりに
つまっているんだなあ、自分は神様の場所
なんだなあと思うとですね、そこで〇〇〇〇や
〇〇〇〇という個人を越えて、神様の場所になって、
その時働きの場所になる訳です。例えば、印を
切ることであったり、書を書くことであったり、
色んな事であったりする訳なんだけど、それを
通して光り輝いていって、その光がまわりに
満ちてくる、そういう事なんですね。

 だから、講師の先生が言ってる、それだけじゃあ
駄目なんだよというのは、自分の中にそういう
生命があるという事を気づかなければ駄目なんだよ
という、そういう事でもあるんです。だから、
言葉尻を捉えて、あれはおかしいんじゃないの
かなあ、あれは五井先生が昔ああ言って
おられたけどというのは、それはそうでもあるし、
今はそれだけでは足りなくなって来ている
というのも事実なんですよ。ただ、それを、
お前達はこうしなければ駄目なんだよ
という風なひびきで言ったとしたら、それは
間違いなんですよね。

 こうしなければ駄目っていうのは神様の世界には
無いんですよ。ただこうしていった方が人類の進化
にとって、一人一人の進化にとって、人間の神性の
進化にとって絶対に必要な事なんですよと。つまり、
愛念に満ちた言葉で伝えていかないと、反発とか
寂しさとか、自分はとっても出来っこないとか
思ってしまうのでね、その辺の指導の仕方が非常に
難しいですよね。その人個人に呼びかけながら、
その人の幽体霊体神体にまで呼びかけて、皆で
協力して通すということは、神の所へ昇って行く
道筋だから、そこに何か不調和な想いが出たら
それだけ皆苦しむ訳ですからね。その所で、
祈り心を一つにして、とに角、世界人類の中に
自分の想いを溶け込ませる。そうすると
平和になっていく訳ですから、そこの所に想いを
集中して、その想念を明るくしてやっていくこと、
これが大事なんじゃないですかね。

老人の生き方について

2012-04-13 11:14:21 | スピリチュアル
 (問)老人の生き方についてお尋ねします。


 (答)この頃は、若い人があんまり長く生きたく
ないとか言う人が多いですよ。誰かさんもどこかで
そんなことを言ってたけれども、何で生きたくない
かというと、どこかでね老醜を晒すという恐怖、
それから、体が弱くなってくるという、それを
認めていかなくてはならないでしょう。老いる
ということはそういうことですよね。

 老いるということは、体力的な気力的なものの
衰えというものを認めてゆかなければならない。
 つまり、記憶もなんか悪くなってきたとか、
そういうマイナスの部分を認めてゆかなければ
いけない。だから切なさとの戦いですよね。本当に
そうなんです。60になったら60になった途端
全部忘れてしまっちゃって、今聞いたこと全部
忘れちゃって、又最初から読まなけりゃならない、
人の話も又最初から聞かなけりゃ分からない
というようになるんですよ。本当にそう
なるんですよ。70になったらもっとひどく
なるんですよ。皆そうなんです。で、
その一つ一つがね、自分にとって恐怖なんですよ。

 又、老いると、人を容れるという寛容の心が
失せてしまう訳で、その寛容でなくなるというのは、
これはその人の性格というよりも、その人の生きて
来た年令がもたらす生理的なもので我慢できない。
 気を長くしようと思っても、その人のその時の
体力とか生活状態とか色んなことで、生理的に
もう我慢ができなくなって人を怒鳴っちゃうとかね、
そういうことがあるんです。そういうものが正しく
自分自身であるという風に、ある一瞬間でも
見なければならない。それが随分辛いんですよね。
 それが恐怖になってゆくんです。それは60に
70になった人が恐怖だというよりも、20代でも
30代でも40代でもですね、ああこの辺が我慢
できなくなっているなっていうことになると、
人間って愕然となるものですよね。結局のところ
そのあたりのことなんですよね。それでは、
生きてゆく限り皆老人になっていく訳ですから、
老いていくということをどういう風に考えて生きて
行くかということはこれは永遠の課題なんです。
 けれどね、生きるということは結局、生かされて
いるということなんですよね。自分が生きるという
よりも万物に生かされているというね、その
生かされているところへ自分の意識をもっていくと、
それが全部感謝に変わっていく筈なんですね。
 祈りによって感謝になってゆく。とても感謝
しきれない事もあります。悔しい事も情ない事も
生きている内に色々ありますよね。ただ感謝
しなけりゃいけない、いけないいけないと思って、
無理に感謝していくと今度は病気になりますよね。
 ですから、私がそのまま悔しい事悲しい事を
お祈りの中へ入れなさいと言うのはね、ありがとう
ございますと言うのが言い難い、言い難ければ、
それはそのままで、五井先生お願いします神様
お願いしますと言えば、守護の神霊がそのまま
祈って下さる訳ですから。

 若い時には、あの祈りは大調和の祈りですから、
ああいいなあと思っている。ところが、歳を
重ねる毎に、あの祈りは難しいなあと思う筈
なんですよ。つまり、すべてにありがとう
ございますでしょう、ありがとうございますどころ
じゃない気持ちの人達がね、世の中に一杯
いるんですよ。嫁と喧嘩をしている、息子とうまく
いかない、孫が自分と離れていく、子供が自分の
思うような方向にいかないと、自分が生きて来た
人生は何だったろうと思う時にね、ありがとう
ございますとはなかなか言えない訳でね、その
ありがとうございますと言えない部分が増えて
ゆく訳ですね。だけれども、それが何故そうなって
ゆくかというと、その人が生きて段々歳を重ねて
いって、人生というのは一面から観れば、喜びや
楽しみよりも何か寂しさと悲しみの方が多いという
ことを、自分の経験で知っていく訳ですよね。
 ですから、その経験で計る以上は、何となく
虚しい寂しいのそっちの方が勝って、なかなか
ありがとうございますと言えなくなるんです。

 ですけれども、そこでじゃあどうしたらいいのか
というと、それでも生命というのは生きる事を
止めないという、その事実なんですよね。みんな
生命というものは、一つとして、この人の生命は
要らない、この草木の生命は要らない、この大地の
地球霊王の生命は要らないというものは何一つ
としてないんですよ。神様の目から観ると。
 この人は悠揚で尊い高い魂だから、こういう人
には生きててもらわないと、優れた人を見ると皆
そう思いますよね。ですけれども、黙って意見も
言わないような、居るか居ないか分からないような
人を見ていると、なんか尊敬する気にもなれないし、
その人が何十年も生きていると、何をうすぼんやり
生きているんだろうと、別に残酷な意味ではなくても
皆思うんですよ。ところがね、こっち側から
観ていますと、さっきの話の続きじゃないけれど、
やっぱり誰一人として神様の光を出さない人間なんて
いないんですよね。そういう人程ね、つまり、何も
主張せずぼんやり生きているように見えるけれども、
その中の火は燃えているというような人、その人程
本当に素直に生かされている、生命のままに流れの
ままに生きるということになるんです。

 老人が生きるのが何で難しいかというと、
そこの所に鋭さが鈍くなっていませんとね、自分の
経験によって生きて来た世界によって、虚しさ
の方が多いじゃないかと観てしまいますからね、
そこで負けてしまうんです。その自分の経験の中に
引き込まれちゃうんです。で、それを跳ね返す力が
弱くなるんですよね。ところが老人というのは、
人間世界から観た年令のことであって、これが
魂の側から観れば、魂の古い新しいはありますが、
しかし、生まれてくる生命の中には古い新しいと
いうものは無い訳です。みんな同じ資質といいます
かね、神の性といいますか、違いはありますが、
そういうものを持って生まれて来ているんですよ。
 だから、この世的に60になろうが70に
なろうが、その人の魂が、やっぱり自分は
生かされてる、体が動かなくても、何かしたい何か
やりたい何か役に立ちたいという風に思っている
限りは、その人の魂は若いんですよ。ただ非常に
難しいのは、老人というのは、我というのが強く
なるんですよね、自分の生きて来た経験では
こうだからこうじゃないか、これは間違っている、
これはおかしいと思うんですよ。無理はないん
ですけれどそうなんです。

 それがね、それが人間の我だって気づいてそれを
直してゆくということは、なかなか難しいんですよ。
 それが凝り固まってゆくと意固地になり頑固
になり、喧嘩ばかりしているというようになる。
 そこに、自分一人じゃない、自分は生かされている
という想いがあるということになってくれば、自分
だけの世界に閉じこもらないで、歳とっても、もっと
広い神様佛様の光の世界があるということになって
くれば、本当に生命が朗らかになってくるんですよ。
 だから何も宗教だけがいい訳じゃないんです。広い
意味で、いい音楽を聴いてもいい絵を観ても、
いい本を観て感激する感動するということは、
それだけ心が若くなって心寛やかになってくる。
それは宗教と同じ、根は同じなんですよ。

 皆さん縁あって白光を知り五井先生という人に
出会って、そこから神様という階段を昇り始めた
人達というのは、それで尚かつ歳をとっている人
というのは、何に気をつけなければいけないか
というと、自分が素直になるって事と我を出すって
いう事の違い。そこを区別してゆくのはとても
難しいけれどね。素直になるというのは、ただ単に
自分の思うように生きたらいいというもんじゃ
ないんです。これは若い時から気をつけなければ
いけないんだけど、思うようにそのまま生きて
いったら皆我が儘になるんですよ。

 神様の流れのままに生きるということは、私は
よく書きますけれど、その神様から来る流れの中
では色んなものがあるんです。調和しているものも
あれば、一見して不調和のものもある訳です。
 大波小波もある訳なんです。だから、流れの
ままに生きる事は、その大波小波に覚悟して
いけますよという、そういう事なんですよ。
 そこの所を間違えて、いい事ばかり解釈
していると、悪いとみえるような事があった時に、
何で神様がいるんだろう、何で佛様がいるんだろう
になっちゃうんです。ところが、その流れ
というのは、本質的には人間を良くしよう、もっと
調和させてやろうという神様の心ですからね。
 それに本当に乗っかって任せきっていればですね、
必ず光も送るし、必ず道が開けるんですよ。
 そこの所で、ああ本当に私は生かされている、
本当に祈りがある、本当にここで任せて任せて
任せ切っていったら、自分の生命が開くんだって
いう風に信じ切って下さればね、そこで人間の
持っている老人の持っている我なんて、
ふっ飛んじゃうんですよね。70幾つの人が
生きてる、60幾つの人が生きてるというよりも、
その人の天命自身が輝くんですよ。

 ですから、素直になるっていうのはね、あくまで
神様に素直になるという事であって、自分の我が
でてくるという事じゃないですよね。ただ
それだけに私生活が非常に難しい。だから、自分が
非常に腹が立ったり切なかったりした、そういう
気持ちを味わった時に、まてよこれは私の我
なのかなあ、それとも神様から来ている流れの中で
覚悟しろということなのかなあ、ということを考え
ながら、世界人類が平和でありますようにとやって
ゆくと、お祈りの中にこめられてる愛念がですね、
そりゃあお前さん我だよとか、そうじゃない、
そりゃあ神様の流れなんだから覚悟して
受けなさいって事は、後ろが教えてくれますよ。
 自分が考える事じゃないですよね。後ろが教えて
くれますから、自分が想い悩み始めたなと思ったら、
とに角、祈って、五井先生に聞いて神様に聞いて、
これどっちなんでしょうと、こっちに預けて
くれたらですね、こっちがものすごく
知らせやすいんです。

 それを皆預けきらないものだから、これはどう
なんだろうか、ああなんだろうかと想い悩んで、
あれはおかしいこれはおかしいとなっちゃうんです。
 あれはおかしいこれはおかしいという事は、神様の
世界には一つとしてないんですよ、完全ですからね。
ですから、あれはおかしいこれはおかしい、これは
苦しいですよ先生、という時にはこっちへ駆け込んで
来ればいい訳なんです。まだみんな駆け込み方が
足りないんです。

 そういう事ですから、若者も老人もひっくるめて、
生命に素直になって生きるっていうことは大変な
ことですけれど、そこを目指して、光に満ちた人が
出来上っていくように、こっち側から応援して
いますから、そんな風に生きていってもらったら
と思います。

平和行進について

2012-04-12 09:22:27 | スピリチュアル
 (問)平和行進についてお伺い致します。最近、
全国的にみて、若干低調になっているように
思われます。一時会員参加者による発声は止められ、
五井先生のテープによる先導ということで、心の
中で祈り言を唱えておりましたが、最近は再び
五井先生のお声の後に唱和するようになりました。

 私達は、世界人類が平和でありますようにとの
街頭唱和でもって、あたりを光で浄め、祈りを
知らない一般の方々への啓蒙活動になることを
信じて実施しておりますが、最近、少し軽視
されているように感じるのですが、現在では、
その時代ではないのでしょうか。


 (答)自分の信じている宗教、南無阿弥陀仏でも
アーメンでも、一緒に唱えるということは、
気持ちがすがすがしくなるんですよね。キリスト教
であれば、アーメンと言った時に、五井先生
であれば、世界人類が平和でありますようにと
皆で唱える、守護霊様守護神様ありがとう
ございますと言うと、そこでピタッとこの生命が
一緒になるという気持ちを言って下さって
いるんだと思うんですよね。

 必要が無くなった、段々回数が少なくなって
きているというのは、二つばかり理由がありまして、
一つにはステッカーが貼られ、ピースポールが
世界中に建立され、書物などが広まったということ。
 結局、平和行進は何が目的だったかというと、
勿論、自分でこの祈りが世界中で一番素晴らしい
と思って、祈りを知らせて下さる、今言われた啓蒙
ですよね。それと全然これを知らない人でも、あの
言葉を聞くと本当に心が和むという以上に、平和に
満ちてきて、別に白光を知らなくても五井昌久を
知らなくても、その言葉だけが胸に残って、いつの
間にか自分の生活の中にその言葉が入るということ
だけでも、すごいことなんですよね。ところが
さっきも言いましたように、色んなステッカー等が
貼られて、浄めの場所が広くなってきた。という
ことは、平和行進の一つの奥の目的は、光を
ふりまいて行くということなんです。浄めをして
ゆくということなんですよね。どんな所にでも
歩いて行って踏み分けて行って、昔役の小角が
山野を跋渉してということがありますけれど、
本当そうなんです。

 役の行者だった時に、何故山野を跋渉したか
というと、それこそ怪(もののけ)ね、生き霊、
悪霊というものを全部光に変えていくということが
必要だったんですね。本当に、まだそういうものが
幽界という閉じ込められた世界ではなくて、地上の
中に堂々と姿を現わしていたような世界
でしたからね。それをどんどん光に変えてゆく
という意味があって、肉体を滅する位までの
行をしながらやっていかなきゃいけなかったの。
 で、その古い弟子が〇〇君であり〇〇君であって、
皆そうなんですよね。皆飛び歩いた仲間なんですよ。

 だけれども、そうやって飛び歩いて、自分の
生命を差し上げますという位にやっていたそういう
人が、段々文明が進んで行って、生活が便利に
なって、世界が狭くなってくると、皆それぞれ生活
というものがあります、暮しというものがあります、
経済もあります。そうなってくると、そういう
生命がけのことがどこまで可能かといったら、
なかなか出来ないんですよ。ですから、世界人類が
平和でありますようにというあの言葉に全部集約
して、このことを唱えると、愛の神様の愛念が、
愛の気が流れてきてね、そんじょそこらの低級霊
なんかは全部浄化されて、あの言葉を聞くだけで
唱えるだけで、光に変わってゆくというそういう
祈り言でしょう。それを唱え伝えるということは、
それだけでもすごいことなんですよね。

 もう一つには、皆がみんな生命を捧げたら人間
生きていけませんからね。やっぱり生きて行って、
その生き通しの生命を次の世界へ持って行って、
宇宙の平和の中に入り込んでゆくというのが人間の
真性ですから、そこで今の現在の状況に合わせて
いって、世界人類が平和でありますようにという
祈り言が出て来た。で、この祈り言も昔は
〇〇さんが言ったように、自分の自己啓発もある、
啓蒙もある、そういう意味で、色んな所を言って
歩いた。確かにそうなんです、自分たちが最初
言っていくことは恥ずかしいですよね。
 ステッカーを貼ること自体恥ずかしいですし、
五井先生の著書を上げることでも、つっ返されたら
どうしようという想いが皆あって、そこを
乗り越えて皆渡したりするんですよね、
リーフレットを渡したりね。皆それで、それぞれ
強くなってゆくんですよね。

 それが今は、ピースポール等が出来てきた為に、
皆がみんな世界に行かなくても、今度は世界中に
ある程度ばらまかれたから、そこの国の人がそこの
国の言葉で感じて祈ってる。世界人類が平和で
ありますようにという言葉は、世界語になって
きてる訳ですね。世界語になって宇宙語に
なっている訳です。元々宇宙人の全部の人の言葉
なんです。もっと言うと、宇宙人類が平和で
ありますようにと言ってもいいんです。そういう
言葉なんです。世界というのは地球世界だけでは
ないんですね。宇宙全体の何億とある宇宙の
全部の生命が、全体で体中で祈っているのが、
世界人類が平和でありますようにという言葉
なんですよ。この今の地球のここに話を戻すと、
皆歩いてゆかなくても、あちこちにピースポールが
立った。

 そこでもし弊害が出てくるとすれば、
ピースポールやステッカーに頼っちゃって、唱える
力とか、唱えて感激するとか、あるいは、大きな
声で祈ることによる感動・感激とかを通して、
ああ神様というのは本当にいるんだなというような
ことが、段々回数が少なくなってくるとそれは
言わない訳ですから、そこで祈りというものは
いいもんだなあという、元初の感動というものが
なくなってくるんですよ。頼っちゃうから。
 だから、皆がねみそぎなどに何故あんなに集まる
かというと、自分の言葉で自分の本心に降りて
いって、五井先生に神様に大神様に挨拶したい、
あるいは、私はこういう風に思っているんですが
どうなんでしょうかという想いを、そのまま
預けるというね。
 みそぎにあれだけ来るというのは、皆本当に
本心開発をやってゆきたい、霊性開発をやって
ゆきたいんです。とそういうことなんです。

 ですから、平和行進というものは、一つには、
祈り言葉が拡がっているから、そういう所でもう
しなくてもいいよという風に、とればとれるんです。
 ですけど、〇〇さんが言ったみたいに、自分の
中の内奥の声というものを本当にみつめて、
そこから自分の内を努めてゆく。
 努めていって自分の人間の真性というものを
磨いてゆくという点から言えば、今これ程必要な
ものはないんですよ。平和行進位。それは自分の
為にもなる人の為にもなる。それは歩いている
だけで、人間は光なんですから浄まっている訳
ですからね。だから、一石三鳥も四鳥もなんですよ。
 そこにそれぞれの守護の神霊の加護がある訳
ですからね。

 ですから本当に、祈りとは何ぞや、唱えるとは
何か。唱名念仏ということね、言いましたでしょう。
 あの親鸞も法然もね。唱名するということは何か
といったら、唱名している内に無になり空になって、
永遠の生命の中に溶け込んでゆくということ
なんですよ。自分もなく我もなく人もなく、永遠の
生命の中に溶け込んでいって、自分が本当に
朗らかな生命の光の一筋のその一部なんだという
ところで、三昧になるんです。三昧というのは、
原稿にも書きましたけど、単なる法悦境では
ないんですよね。自分だけの世界に浸るという
ことではないんですよ。ですから、平和行進が
単なる自己満足ですとか、良い言葉だなあと
酔いしれるというのですかね、その程度で満足
するのでしたらやらない方がましなんですよ。

 一時、平和行進の唱和を止めたというのは、
自己満足で自己顕示で酔いしれる人が
いますでしょう。これだけ大きな声で読んでます、
五井先生聞いて下さいと。しかし、本当の霊性
というのはそういうものじゃないよということを、
やっぱり磨かせる為に止めたんです。
 どんないい習慣でも、どんなに良い言葉でも、
それに人間が慣れてくると、その中にある光が
どんなに大きいか深いか広いかということに気が
つかないんですね。気がつき難くなるんです。で、
一回それをポンと突き放されて、例えば、平和行進
でも何でもね、はいじゃあ止めましょうという形で
止められてしまうと、その一人一人にとって、
どれ程大事でどれ程自分の中にくい込んでいたか
いないかということが分かる訳なんですよね。
 あるいは、自分自身の意識の上では、平和行進は
そんなに必要ないと思っていても、思いがけない
人から、なぜ平和行進しないんですかと、そんな
ことを他人から言われたりして、他の人の中に
それ程くい込んでいたかというようなことで
知らされる。それがその人の魂の開発になると
いうようなことがあるんですよ。

 ですから、自己満足や自己顕示欲に終わるその
人達の魂の開発が、そろそろきちっとなって
ゆけばですね、魂が澄み清まって純度が高く
なれば、自ずから平和行進しましょうという風な、
つまり、集会の案内をもう一度出しましょうと同じ
ことなんです。

 やっぱりやらなきゃ駄目ですね、というように
実践の方へなってゆく筈なんですよね。だから、
平和行進をやって下さいという声を本当に高めて
下すって、やっぱりやって下さるということが
一番なんです。で、平和の祈りというものは、
本当は自分もない人もない、ただ神様の生命の中に
入り込むという大調和の祈りですから、我という
ものを無くさせる祈りですから、自分が自分が
という我をとって、大我の中に入れる祈り
ですから、やっていく内に、自分の意識は
とも角も、その奥の体の中には徳がずっと積もって
ゆく訳ですよね。ですから大いにやっていただいて
いいんです。
 本部が中心になるんじゃないんですよ。人間が
中心なんですよね。

授与された お浄めの印の効果について

2012-04-11 10:48:45 | スピリチュアル
 (問)講師、(常任幹事)、フェローにそれぞれ
お浄めの印が授与されており、皆さんから求め
られれば、積極的にお浄めしてお上げなさいと
言われております。お浄めの印をいただいたものは、
神を信じ愛一筋に、その人にかわって祈らせて
いただく限りにおいて、入信10年の人も20年
30年の古い先生方であっても、そのお浄めの効果
には軽重なしというつもりでお浄めさせて
いただいてよろしいですか。私如きがという
気持ちはやめて。


 (答)それでいいんです。印というのは何か
というと、天から流れてくる神様の愛の気という
ものをですね、ある人にはいやしの形で、ある人
には法則の形、又ある人には違う形でその時々に
応じて流すものなんです。それが印なんです。

 今、白光が色々分けてる、フェロー印、
講師(常任幹事)の印、宇宙子科学の印と。何で
分けているかというと、人間というのは本来一つの
神様から流れてきている生命でして、今あなたが
言ったように。本当に真心こめて、神様お願い致し
ますと言う時には、皆軽重はないんですよ。
 守護霊さん守護神さんが後ろで働いてね、こう
上にいくんです。それは間違いないんです。

 ただ、印というのは無心に使えば使う程
いいんですが、無心に使おうと思うと、例えば、
印というのはね、私が統一会でこうやってる、
昌美がやってる、あるいは村田さんがやってるのを
見ていると、何か特別なものに皆思うんですよ。
 で、自分があんなに使えるかしらと思うから、
例えば、フェローの印などもらっても、あれは
基本形であって、フェローの変形なんか
あるんですよ本当はね。だけどもらっても、自分は
その印の形を組むだけで精一杯だと思うから動かない
だけでしてね、あれはこちらから観ていると、
肉体的には動かしてないけれども、霊体はずっと
全部動いちゃって、すごく複雑な印を皆
切るんですよ。みんな動かしていない様に見える
けれど、皆それぞれ個性個性に応じて、
フェローならフェローの800人居たら、
800種類の印がその人の個性に応じて
切れるんです。それは何故切れるかというと、
守護霊守護神が付いていて、その人の世界に合った、
世界に合ったというのは世界が皆違うというのでは
なくて、その人の霊界というのかな、その人が帰る
魂のふるさと、そこに応じて、この人だったら
この天地の住人だから、こういう印がこの人には
一番伝えやすいな流しやすいなと思うと、上から
その気が降りていって、それで全部が印を
切り出すんですよ。

 で、如来印を組んで私を呼んで下さっている
時でも、如来印からずっと如来印の変形が
出来てですね、100人居たら100種類の印で
皆五井先生を呼んで神様を呼んで、一つに流れて
いっているんですよ本当はね。だから、印を組むも
組まないもなくて、これが印ですよと、はいっと
いって与えられたら、肉体は動かなくても、
霊体神体はそれで自由自在に切っているんです。
 そう考えて下すっていいんです。

 ただそれがね、今みんな動かしてもらって
おりますけれど、あれなんていうのもね、今本部で、
ここでやっているようなことをやればね、
ものすごくパニックになりますよ。何故かというと、
生前五井先生や昌美とかね、その人達だけしか
切れないようなものが何で切れるかということに
なって、それだけで真偽どうしようかということに
なって、くだらない話になるんです。結局、先程
〇〇さんが言った、とっても自分にはまだまだ
切れないという想いね、それが一つ邪魔をしている
ということとね。霊体は自由自在に切っているのに
肉体の想いというものは、自分はまだまだとか、
あの人は偉いとか、とてもあの人には及ばないとか、
そういう余計な想いがあるもんだから、肉体と
霊体が一致しないんですよ。霊体は自由自在に
動いているのに、肉体は中々それについてゆかない。

 だから、肉体と霊体は、自分が本当に使わせて
いただく時というのは、例えば〇〇〇〇ではなく、
つまり神様の愛が流れ込んで、神様の一つの器に
なって、神づまりにつまって、自分が言うんじゃ
なくて、後ろで守護の神霊が言って下さって
いるんだ、五井先生が言って下さっているんだ、
神様が私に言わせて下さってるんだという想いに
なればですね、〇〇〇〇という肉体的な個性とか
肉体の生命とかいうものは越えてしまって、素直に
天から言葉が流れてくるんです。

 言葉というのは神様の光ですからね。本当に
言葉の中に生命があって光があるということに
気がついていれば、みんな喧嘩なんかしなくなるん
ですよね。だけれども、言葉というものは容易に
口から出そうと思えば出てゆきますから、それほど
皆考えずに出していって争いになってゆく訳です。

 とに角、そういう印を組んで、はいやって下さい
という時には、積極的にやっていいんです。その
積極的にやる時には、私がやるんじゃないんだ
という想いでやれば、どんな人でもやっていけるん
ですよね。講師あるいは宇宙子科学が一本指だとか
何だとか、そういうことに決して把われることは
ない訳で、皆一緒なんです本当に。ただその人の
住む世界、その人の魂を支えている世界によって、
霊人の種類が違います。それから、霊人の応援の
種類が違います。ですから、ある人に弁財天が
ついてある人に寿老人がついているというのと
一緒でしてね。守護霊さんの格が上とか下とかいう
のではなくて、その人のこの世の中での働き、
向こうへ行っての働きの違いを現わす意味で、皆
それぞれに分かれているという区分だけの意味
ですよね。

 ですけど、違う働きが全部一つになって、神様は
愛である、神様というのは無限の愛のゆるしの方で、
我々から見たらあの人に何か役割があるんだろうか
と思われるような人でも、こちらからは分からない
けれども、神様の方から見れば、大いに用いて
ゆこうと思っていらっしゃる訳で、人間が肉体の目
から見て、あの人は役立たずだなあと思っても、
神様の側から見たら、こんなに素晴らしい器はない
という人がある訳なんですよね。決して印なんか
切らなくても、宗教なんか入らなくっても、目が
きれいな人でも口のきけない人でも、何でも
いいんです。何でもいいんですと言ったらいけない
けれども、とに角、その人の想いが気持ちが心が
光輝いているかいないか、そこなんですよ。

 だから、印というのもいかに素直になるかと
いうこと。ただそれだけなんです。印を切らせて
いただく時には、その辛い悲しみそういう想いを
捨ててね、どうにも神様と呼んでるだけでは
駄目です。だから何とか柏手を打ってお浄めを
して下さいという時には、私が中に入ってますから、
その人の天命が完うされますようにと祈って、
そこで柏手を打ってお浄めをしてゆけば、その人
自身も空っぽになる、打った人自身も浄められる
という、両方いいんです。ですから、軽重なし
誰かれなしと考えて下さればいいんです。ただ
さっきも言ったように区別はあります。

 しかし、区別というのは、大きな働きを、大調和
という一つの大きな目的の中に、その流れの中に
入れ込む為の仮の区別ですから、あくまで仮の区別
ですから、全く誰がどうの誰がどう偉いとか、
フェローは良くって幹事はどうのこうのという
ことはありません。全くありません。ただ人間
というのは、やっぱり一つずつ段階を踏んで、
あなた七年来ましたよ、この印を上げますよと
言っていかないと、誰も彼も平等ということに
なれば面白くないし、人間の癖というか想い癖
というか習慣というか、そういうものを神様は
よくご存じですからね。

 そういう人間の人間らしい良いところも悪い
ところもひっくるめて、それをとったら、とに角
人間は一所懸命にならないということをよく御存じ
ですから、七年経ったらフェローの印をもらえるん
だとかね、くだらないことですけど、何かそういう
目標というものを持たないと。実は休んでる時にも
休んでいない時にも、印なんて切り切りに切って
いるんですよね。切りっ放しなんだけど、
そんなこと肉体人間は判りませんからね。で、息を
するのと同じように印を切ってる、印を切ってる
ということは神様に想いが流れていると。想いが
流れているというよりも、神様の方から人間に
対する想いが来て、そして、本心の奥の奥の方から
神様ありがとうございますという流れが想いが、
神様の方に流れ込んでいって、それで生命という
ものは成り立っている訳ですからね。

 だから、自分は意識するしないに関わらず、
神仏の光と人間は交流をして生きているものです。
 感謝しながら成り立っているもんですから、その
生命の成り立ちが判ってくると、自然に祈り心が
湧いてくるし、祈りが出てくるし、あるいは印が
組めるようになる。そうなってゆくんです。本当に
何事にも無駄ということはないんです。

 例えば、フェロー印の七年目というのは、七
というのは完全数でしょう。一・三・五・七という
のは全部完全数なんですよ。七というのは全部の
一つのまとめなんです。東洋も西洋も完全数は七
なんですよね。元をたぐってゆけばね。七は一つの
目標ではあるけれども、それぞれの霊体幽体神体
というものに対しても、完全数に近づいた所で、
一つの神界からのサインというんですか、気の流れ
というものを受けとめる、あなた器になりましたよ
という許可が出たことで、その人の霊位というのか、
そういうものを喜んで、私は一所懸命やりましょう
と、本当に輝いて一段二段と昇るんです。

 そういうことで、神様には無駄がないんですよ。
 全くこんなのはくだらない事じゃないかと
思ってることでも、それは人間の想念の方で
くだらないと思うだけでして、向こう側からすれば、
全く人間というものを深く深く考えて捉えて、
人間がいかにしたら深く愛し合えるようになるか、
赦し合えるようになるか、認め合えるようになるか、
調和できるようになるかという、そこだけを考えて
やっている。それがすべての現われなんです。
 ですから、不満や不平、不安や怒り、そういう
ものも一体どこから来ているものかということを、
一回考えてみて、とに角祈ってゆくということが
大事だと思います。