小原民子の作品ブログ

絵を描いているので,ときどき紹介したいとおもいます

Morandiと自然食

2013-02-22 | 創作日記

2007 6.30

 

      2人の講師の方が私にMorandiの画集を見せてくれた。

     そういえば研究所の一番最初の油彩課題は

     静物だった。ポットとフライパンと円柱。テーブルの角度と敷物の色がいまだに

     気に食わない。背景の色も物と分離している。けれども物1コ1コに対する愛着は

     ものずごく現れている。確かに色を塗り重ねていく途中途中の微妙な

     移り変わり具合が楽しくて夢中になっていた。

      今日届いたMorandi 26歳当時の静物画!一番これを見たかった。 

     やはり若いときの作品だった。

     今回の画集は前の完成された作品中心にまとめられていた2冊とは

     ちがった取り上げ方をされていた。過程・完成までの微妙な 長い時間をかけた足取り

     pre というのか、一寸ちょっと手前の これこそ創作している立場としては必要だと

     思えるもの。Morandi26才当時の静物画。これと対話したかった。

     その後未来派の流れにも汲みしキリコみたいな作風をとおり過ぎ、

     また戻っていくところ。将来の作風への予言のような予告のような合図のような・・・。

     こっちやそっちに振れてもここに帰る場所があるというような絵。画集の表紙。

     熟練された50~60代のときの作品ではなく(終着点、完成時)、出発点を表紙に

     していたのだ。(編集者のセンスのよさに頭が下がります。 )    

     

      わたしはいったいどこに戻る?

      どうしてこんなにもMorandiの色合いをおいしそうと感じるのだろうか?

     ほんとうになぜだろうと思っていた。筆のタッチだろうか?モチーフに対する愛着

     だろうか?(スタジオの写真を見る限り、捨てるのがもったいなくてとっておいたという

     感じがする) 住んでいた環境だろうか?(きっとまわりは白壁だったんだろうな、)

     いや、写真で見るかぎりはかなり質素。習慣だろうか?毎日必ずこれをしなきゃ気が

     すまないちょっと偏執狂的な・・・?いいや、ふつうの人に見える。

     厚塗りだから? オイルの量が多い? いいや、水彩やデッサンの線だけでも

     十分おいしそうなのだ。いったいなんなんだろう、あの暖かみは?

     人間味。そうだ自然食。

      窓の外で、大きすぎる古いむぎわらぼうしをかぶった母が畑仕事をしている。

     昔使っていたから引っ張り出したのかもしれないむぎわらぼうし。

     でも大きすぎて小柄な母にはちょっと不釣合いな上に、たぶん私だったらツバが

     広すぎてじゃまだと感じてしまうにちがいないものを、気に入ってるんだか

     あるから仕方がなくかぶっているのかわからないかぶり方をしている。

      小学生の頃、土曜日だけ持って行った母の自然食弁当の色合いを思い出した。

      いつ思い出した?夕食のときだったか画集の表紙を見ているときだったか・・・。

     とにかくおいしそうなのはなぜか?なぜ私はMorandiの作品の色合いを

     くすんだ色とはとらえていないのだろうか私は? と考えていたのです。

     発色と古さと新しさ。そういえば土曜日だけ持って行ったお弁当は茶色系。

     隣で食べている、髪の毛がサラサラで目もぱっちりのなおちゃんのお弁当は

     真っ白なご飯に真っ赤なウィンナー、まっ黄色な卵焼きに真っ赤なトマト、

     ピンクの桜でんぷ。輝いて見えた。

      玄米の茶色にきんぴらごぼうの茶色。梅干も朱色ではなくマゼンダ色。

     キンシンサイ(ゆりの根)の茶色。母には申し訳ないが、全体的に茶色でヨレヨレっと

     見えてしまったものだ。

      私の髪の毛はちょっと雨が降ると当たってもいないのに水分を含んでもしゃもしゃっと

     なり、服だって合成洗剤を一切使わず漂白剤などもってのほかだったので、洗濯あと

     の微香など漂わず無臭で(どちらかというと無臭+犬・ネコ・ばあさんの獣のにおい)、

     ジャージは毛玉だらけで白いTシャツは黄ばんだまま。なんだかごちゃごちゃしていて

     くしゃっとしてくすんで、輝いていない自分を感じていたものだった。

      今思うと、研究所の夜間通いの3年間を乗り切ったのはちいさいころの

     徹底した自然食教育のおかげだった。おかげでMorandiともめぐり合った。

      油絵の具自体が古いとか重たいとか そんなことではない。小さい頃毎日

     食べていた玄米は、昔の貧しい農民の食べ物で、ぴかぴかの白米で育った人から

     みれば相当に古い。1980年代の話だ。ところがどうでしょう、今の自然食ブームは?

     雑穀までもが見直されている。古代米なんて雑誌にもおしゃれに登場し、ローソンの

     おにぎりでも高く売られている。

      

      夜間の美術研究所に通って、蛍光灯とはイヤでも闘わなければならなかった。

     電力のおかげで夜間で通えるようになったものの、最初に光と影を描きましょうでは

     なく、どこの電気とどこの電気のスイッチをつけましょうかという設定の問題になる。

     石膏デッサンも何も実に白々しい。明暗も陰影も自分で作るものだと知った。

 

      そうそうところで26歳。わたしは何をしていた?昼間働き夜間で習い、休日は

     ぐったりしているか・・・そうだ、本を読み漁っていた。それほど頭のよいわけでもない

     私がなぜ?

      考え方の支柱 デッサンの基本構造 骨格 そうだやはり立体に行き着くのだ。

     平面に立体を起こしてみようとして遊んでいたのだずっと。じっと目の前のものを

     ずっと同じテーマで追っていくかどうかということだった。私がMorandiのアドバイスを

     必要としたのは。

      そうしたらまずわたしはことばを構成していたのだ。目の前のものを見ていても

     いつしかずっと離れて自分の追いたいものを追っていく。支柱は自分のことば。うた。

     

      枯れたアジサイはいつ描こうか?どうなる?どの筆とどの絵の具がパレットの上に

     乗るのかに寄る。アジサイを描きたいのか?アジサイを見た自分のイメージ(ことば)

     を描きたいのか?

 

      母のことばとは、こうだ。私の部屋に用があるとき、ノックをして板に音を

     響かせるのではなく、「トントン」と、ことばを発して合図する。なぜかここでことばを

     発する。第2関節で戸を叩かずに。これが母のことばなのだ。

      Morandiと自然食と母。またまた謎が深まった。

 

      長い時間をかけて ようやく 徐々に 少しずつ ということはよく教えてもらった。

 

     

     

     

     

 


2007.7.2(月)

2013-02-22 | 創作日記

 

 

      風通しによってなのだろうか。日光の照り具合によってなのだろうか。着手する

     絵とパレットに出す絵の具の色のちがい。日替わりの道具。

      このあいだはものすごく緑 緑 緑 だったのになんと今日は黄色が最後まで

     あまってしまう始末。黒の線を求めていた。

      梅雨時期はやはり静物画に限る。

 

      昨日の車酔いがまだ尾を引いていて、目がぐるぐる回る感じだった。1ヶ所に

     とどまりながらも、対象・方法・線や面を視線によってぐるぐるしている毎日だったのに、

     それに加えて動く風景は視界に飛びこむし体ごと移動される。しかもドライブは

     山道だったので 余計ぐるぐる ぐるぐる。頭と首の調子も胃袋の調子もついていけず

     ヒイヒイといっていた。しかも遠出ついでに食べ過ぎてしまった。

      黒のカタチも食べすぎがあらわれていた。あれは生まれてはじめて展覧会に出した

     絵ではなかったか?関係ない関係ない。続きは2年後、5年後。そういう種類の

     作品だったということ。このカタチこの色合いこれは年内に終わるものではない。

     そう判断されたものはあっさりとされたまましばらく放置される。ワインだって寝かせる

     ものだ。発酵させておくわけだ。

      うまれて初めて家で着手した人物画 ハデにあっさりとそのときにしかあり得ない

     絵の具の使い方で一瞬にして描かれずっと放置される。その期間実に6年。

     やっとGOサインが出た、重ね塗りの。構図も筆遣いも実にゆっくり ゆっくりだ。

      発表!? これが実に困ったものなのだ。いつでも未完成。いったい何を

     展示する? どの途中を? この系統とこの系統という相反する2様式が常に対立

     し合う。というか、これまで画集や展覧会で見てきていいなと思った画家のを

     片っ端からまねているのだ。つまり今10枚選んだらこのような題名になるだろう。

     ピカソ風・ちひろ風・クレー風・モディリアニ風・ヨロズ風・モランディ風・セザンヌ風・

     ニコルソン風・ノルデ風・カンディンスキー風・ルオー風・モリゾ風・オキーフ風・太郎風・

     ロスコ風・ポロック風・脇田和風・猪熊源一郎風・写真風 前田寛治もはずせない。

     棟方シコウだっている。加茂田庄司の陶器には泣けた。(厳しさ)ブラジルの

     アドレアナさん・上村松園・ドガ・ゴヤは最初に見た。子どもの骨を食っている

     サテュルヌス(何者?)と理性の眠りはナントカを食う・・・。まさに現代日本。ビュッフェ・

     ミロ・ ローラ・オーエンズ・清水さん・欄村くん・あさのちゃん・朝鮮民画・松本俊介

     (ちょと暗くて暖かみのある女性像 デッサンの絵-北ホテル-には励まされた。)

     インド 南米 細密画 着物の模様 ヤマモトヨウジの質感 イタリア人の着くった服

     遠野のおばちゃんの作ったわらゾウリ HANJIROで買った古着 仙台で買った漫画

     昨日NHKで見た古代インカ帝国時代にいけにえとして捧げられた子どものミイラ。

     家裁調査官になるための勉強をしに図書館へ通ったこと。 母が「おいものせなか」で

     買ってきたイランの水差し。 「私の部屋」で母が買ってきた木の台。 去年のアジサイ

     ポチとばあさん。

 

      1枚1枚題名を分けることほど不可能なものはない。私はジャージ姿だ。

     こんな畳の上を毎日とおっている。すなわち、ちょっと体重をかけたら畳のヘリが5cm

     下がった。いつ落ちるかわからない畳の上。とてもとても上等な暮らしぶりという

     わけにはいかない。1枚1枚ということは、いったいどういうことなんだ?

     100枚は100人ということか?100枚は100箇所ということか?5枚は名無しで

     3枚は人物画? こんどの2枚はone set。濃密とサラリのセット。

     具象と抽象のセット。重ね塗りに線で仕上げるセット。COLOR BARセット。

     COLOR CIRCLEセット。diamond-shaped color セット。

     線と面のてんこ盛りセット。 料理のように 仕上げるセット。静物画セット。

     ちひろセット。バウハウスセット。ちょっとホラーセット。

     太郎セット。メロくん(当時居ついていたノラネコ)セット。ポチくんばあさんセット。

     風景画セット。花セット。写真からセット。Avery風セット。

      カオと赤い服の構想はどう?続けられるか自信ない。

     横断歩道と電信柱-at Hanamaki-の下絵も。