随分前に読んだ須賀敦子ですが、坪内祐三がエッセイで須賀敦子を言及しているのを読んで、再読してみることにした。
以前、読んだ時、自分自身の感覚に、パチンと嵌まってこなかった印象があるのだけど、年齢を重ねたら、また読みが変わっているかも知れないと思い、再読してみたのです。
風景描写は、すごく巧いなぁと思い、まだ行ったことがないトリエステは是非、訪れてみたいと思ったし、ミラノは、須賀敦子在住の頃の風景や、それ以前の戦前の風景に思いを馳せたものだった。
その描写には、雨の音や匂い、闇の中の石畳みの艶、路地の入り口に立つ薄ぼんやりと灯る街灯など、それらの風景が頭の中に浮かんでは、脳の奥に沈んでいくような印象深さだった。
でも、この年齢になっても、なにがかしかの違和感を感じてしまう。
その違和感の正体は、須賀敦子の、自己の描写を含めて人の描写にあるということに、気付いた。
人への視点というのは、書き手の育った環境や時代背景、宗教観にも強く影響を受けるものだと思う。
文脈から、須賀敦子の、己には思慮深く、人には謙虚な視点をとても感じるけれど、私の好みは、幸田文の人への描写な気がする。
幸田文には、思慮深さにも鋭利さがあり、たじろがない情の強さ(こわさ)を感じる。