私の母は、秋田二ツ井の人です。
私の母方の祖母うめが私に語った話です。
うめの祖父は、うめをあぐらに抱きかかえ、戊申の役、秋田戦争の話しを、よく語って聴かせたそうです。
そして、祖母もまた孫である私に、その戊申の役、秋田戦争の話しを、何度も何度も、語って聞かせてくれました。
二ツ井には、南部が家老の楢山佐渡を大将に、八幡平を越えて攻め入ってきたそうです。
秋田は、奥羽列藩同盟を離脱したので、南部もやむなく攻めたということでしょう。
その南部藩に侵攻された二ツ井は、米代川が、血の色に染まったそうです。
それは、それは、悲惨な状況だったそうです。
本来、二ツ井のあたりは豊穣な稲作地帯で、米代川は、米のとぎ汁で川が真っ白になるということが名前の由来だそうです。
その川が、血に色に染まったというのです。
祖母は、その壊滅的な二ツ井を救ったのは、官軍佐賀鍋島藩のアームストロングだった言うのです。
祖母の口から、アームストロングという、当時あまり一般的ではなかったアームストロングというカタカナの言葉が出ることにも、私はちょっと驚くとともに、興味が湧いたものです。
戊申の役後のこと。
祖母の生家の納戸にしまわれている薙刀が、時折、はらりと袋からその姿を現すのだそうです。
大人たちは、薙刀がまた血を吸いたくなったのだと、言ったいいます。
母も薙刀のそのようなことが起きた話しを覚えていると言っていました。
私が高校2年の時に、秋田から札幌の私の家に逗留していた祖母が、風邪が元で亡くなりました。
私は、祖母の語った物語が心に在り続け、大人になってから佐賀を訪ねました。
佐賀に、アームストロングがありました。
キャノン砲もありました。
母の故郷は、アームストロングのお陰で、どうにか戊申の役での敗戦を免れましたが、私の父の故郷の南部は、賊軍になってしまいました。
母の故郷では、大隈重信に因んで早稲田大学へ進学する者が多いそうです。
うめの夫となる私の祖父も早稲田大学の卒業生です。
それに引き替え、
南部出身の私の父や祖父から聞いた物語が、これまた波瀾万丈で、泣けます。
それについては、いずれ、また……。