ある日の気づき

歴史ノート/「明治維新」批判その1

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1. 小日本主義
2. 「元勲」
3. 神仏分離令
4. 小栗上野介
更新履歴と同カテゴリの記事(←「明治維新」批判その2以外の関連記事リンクも含む)

歴史的観点から憲法と国際法を考える」の 3. 4. でのキーワードである「小日本主義」、
元勲」、「神仏分離令」、「小栗上野介」についてのメモ書きから抜粋。

1. 小日本主義^

# 戦前の日本では、残念ながら「小日本主義」政権が一度もなかった...
https://ja.wikipedia.org/wiki/小日本主義
「1910年代から1920年代の日本で経済雑誌『東洋経済新報』に拠る三浦銕太郎石橋湛山らが
主張した外交思想。当時の国策の主流であった
「大日本主義」を批判するものとして提唱され、政治的・経済的自由主義と結びついていた点に
特徴がある。満韓放棄論とも言った」
「19世紀後半よりイギリスで盛んになった「小イギリス主義」(Little Englandism)を模範と
している。大植民地帝国であった大英帝国は、実は19世紀末にはインドを初めとした植民地が
経営上「赤字」に転落していた」
「さらに国力が微弱な日本は朝鮮、台湾などの植民地経営を行っても行政コストなどの面で
やはり「出超」となり無駄が多く、それらの領有を放棄し独立させ」「本土のみの軍事負担も
小さい「通商国家」として繁栄を謳歌しよう、という思想」
三・一運動を世界的規模での新しい民族運動の一環として位置づけ、「凡(およ)そ如何なる
民族と雖(いえども)、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来殆どない」として
民族自決を原理的に承認」
# 徴用工問題や慰安婦問題も含めると途方もない「コスト」になっていることも考えると、
# 「大日本主義」は「野蛮で礼節に欠ける」だけでなく、当時の自国経済にとっても
# 有害無益な「大愚策」で、国際的孤立による巨大なリスク(実際、現実になった)を負った
# 最悪の政策と言えます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大日本主義
「日本が支配領域を海外にまで広げ、国土の増大や経済などの繁栄を目指すという主義。
この言葉は石橋湛山によって主に使われ、反意語に小日本主義」
# もし仮に小栗上野介が政権にいれば、その財政感覚で「小日本主義」の政権になったような
# 気がする ...「維新の十傑」とか「元勲」とかには有能な財政家がいない事が、明治国家が
# 国策を誤った一因と考えます。

2. 「元勲」^

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の大蔵大臣・財務大臣一覧
# 明治国家初期の大蔵卿は出身藩の財政を担当したことすらないので、幕府の勘定奉行として
# 有能さを発揮した小栗と比べると... 屑^^;
# 一応は「元勲」の末席にいる財政家「松方正義」は、最悪のデフレ政策を平然と実行した
# 「他人の痛みに無限の忍耐力を持つ」無能者ですし ....
https://ja.wikipedia.org/wiki/維新の十傑
https://matome.naver.jp/odai/2141760237858804201
https://ja.wikipedia.org/wiki/元勲
https://ja.wikipedia.org/wiki/松方正義
https://ja.wikipedia.org/wiki/松方デフレ
「繭の価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた」
# もう一人の明治国家初期の大蔵卿は日露戦争時の財政を理解しない無能者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/渡辺国武
「日露戦争前後では対露強硬論を主張、戦争後もポーツマス条約反対を主張」
# 下記の二名にも財政上の功績と言えそうな事は見当たらない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/井上馨
https://ja.wikipedia.org/wiki/松田正久

3. 神仏分離令^

# 明治政府は、近代国家に何が必要なのか分かっていないために、しばしば有害無益な政策を
# 行っています。文化面で最悪だったのが
https://ja.wikipedia.org/wiki/神仏分離
「「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用」
# そもそも、近代国家を作ろうという時点で「国教」を制定しようとか「祭政一致」を理想に
# するとかいう発想が「どうかしている」わけで...
「それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した」
「神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった」
# 「平田派国学」のような底の浅い思想によって政策を考えるという時点で為政者の器が知れ
# ます。近代国家での「国教制定」という発想自体が馬鹿げていますが、「神道が国教になり
# うる」と考えたのは、政治的な感覚が古代国家(例えば、ローマ帝国、ササン朝ペルシャ、
# 大和朝廷など)の為政者と比較して、かなり劣ると考えざるを得ません。古代国家の為政者
# たちは、「国教」として国家統合に役立ち得る宗教は高度に体系化された思想的普遍性が
# 必要だと理解していました。どの古代国家も、体系的思想に裏打ちされない土着の宗教を
# 国教にしようなどという愚行はしていません。
# 「王政復古」というなら、大和朝廷が仏教を国教にした理由くらい考えてよかったはずです。
「これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。
地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 
これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。」
# ISことイスラム国を自称するならず者の「国家」と文化面で同レベル....
# 大航海時代の宣教師の中で最低レベルの連中とも張り合えそうな蛮行。
「神仏分離政策は、「文明化」への当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われた」
# 宗教や思想などの精神文化についての素養に欠けた連中が啓蒙思想家の代わりが勤まるなどと
# 思い上がった結果の惨状.... 明治国家は、周辺諸国との関係において、無道無慚で礼節の
# かけらもない振る舞いをする習性があるわけですが、これは内政における自国の精神文化を
# 平気で踏みにじる政策と表裏一体とも言えそうです。「和魂洋才」とか「東洋の王道、
# 西洋の覇道」とか言いつつ「無魂猪口才」や「修羅道、餓鬼道」がはびこった明治国家。
# その国家を「理想とする」連中が、なぜか掃いて捨てるほど居る....
https://true-buddhism.com/religion/shinto/
福沢諭吉のいう仏教と神道の違い
...
元来我が国の宗旨は、神仏両道なりという者あれども、神道は未だ宗旨の体を成さず。
たとい往古にその説あるも、既に仏法の中に籠絡せられて、数百年の間、本色を
あらわすを得ず。
(中略)
とにかくに古来日本に行われて文明の一局を働きたる宗旨は、唯一の仏法あるのみ。
(引用:福沢諭吉『文明論之概略』→全文テキスト。上記は第九章から)。
# 旧幕臣なので吉田松陰あたりの「尊王攘夷」的な妄想に毒されてはいない。^^;
# 小栗上野介がいた幕府使節団の一員でもあり、近代化の緊急性は痛感。
https://ja.wikipedia.org/wiki/福澤諭吉

4. 小栗上野介^

http://ja.wikipedia.org/wiki/小栗忠順
文久3年(1863年)、上野介と改名。三河小栗氏第12代当主
# 当時の日本で最も有能な官僚で、本物の「大政治家」たりうる資質を備えていた人です。
「明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から幕府側
から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した」
「文武の才を注目され、若くして両御番」「率直な物言いを疎まれて幾度か役職を変えられた
が、そのたびに才腕を惜しまれて役職を戻されている」
「小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、
記念にネジを持ち帰った」
...
横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設」
「万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発行益により建設費用を賄っていた」「製鉄所の
建設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力も
あり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行った。この学校の卒業生には明治政府に貢献
した人物が多い」
...
「小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化」「日本初の西洋式火薬工場」
「株式会社「兵庫商社」」「日本初の本格的ホテル、築地ホテル館」...
「取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に
家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された」
# 近代国家に何が必要かを理解し、かつ、それを実現する卓越した手腕と財政感覚とを合わせ
# 持つ、時代に抜きんでた人でした。それを ....
# いわゆる維新の十傑とやらと坂本龍馬、勝海舟を合わせたより、彼一人の方が、卓越した
# 財政感覚の裏打ちがある分、良い仕事ができたようです。
# 上に挙がっている功績だけでも、維新の十傑とやらと坂本龍馬、勝海舟の主な業績を全部
# 足したものより大きいので.... 大久保利通は政府の全権を掌握した時期がありますが、
# 彼の業績も、小栗の業績には見劣りします。
https://bakumatsu.org/men/view/14
小栗上野介
幕末三俊のひとり(ほか、岩瀬忠震、水野忠徳)本名は小栗忠順(おぐりただまさ)。
幕臣として、勘定奉行や外国奉行をつとめる。
「幕末三俊」の他二名は、幕府の外国奉行(外交担当)として著名。
https://ja.wikipedia.org/wiki/岩瀬忠震
https://ja.wikipedia.org/wiki/水野忠徳
# 明治国家は、欧米諸国との外交では不平等条約改正などの「成果」をなかなか出せていない
# 一方、近隣諸国とも、やたらと戦争するだけで、正常な外交関係樹立に失敗し続けています。
# これは、欧米諸国と外交交渉で渡りあった経験のある幕府の外交担当者を登用しなかったため、
# 外交能力のある人材がいなかったことが、主要原因かと思います。
# なお、小栗と水野は、勘定奉行と外国奉行の両方を経験していますし、岩瀬には、対米交渉の
# 相手のハリスをタジタジとさせたという逸話があるようです。なお、ハリスは岩瀬との交渉で
# 嘘をついた形になる、ので、岩瀬が不平等条約の改正交渉を担当していれば、それを材料に
# 交渉を有利に進められた可能性があると思います。
# 一方、明治の「元勲」とやらは陰謀と戦争ないしテロの経験だけの連中ばかりで、内政や
# 外交に手腕を示した実績は何一つないわけで ....
# 薩英戦争や下関戦争の処理の交渉も大半は幕府に丸投げしただけで、しかも、それらの
# 担当者は明治国家の主要メンバーになっていません。
# 下関戦争の戦後処理を担当した高杉晋作が生きていれば多少は違ったかも知れませんが、
# 高杉晋作の交渉は、相手の要求は「丸のみ」し、不都合な「賠償金」などは幕府に押し付ける
# という程度でしたから、あまり期待できないかも ... また、近隣諸国との外交交渉失敗は、
# 「幕府時代の外交交渉はどうだったか」知っている人材がいないことが致命的な原因だったと
# 思われるフシがあります
# 旧幕臣からの明治国家への参加者は、小栗を筆頭とする不参加者に比べると、あまりにも
# 「小粒」に思えます。最も有名な勝海舟も、事績を掘り下げると、胡乱な点が目立ちます。

http://www.technosjapan.jp/column/column01/000203.html
No79. 偉大な日本人「小栗上野介忠順」
「勝海舟は偉い人だ!」と思い込んでいた、実際に偉い人は他に居たのである。
その人の名前を「小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)」
「勝海舟」は「自己主張」と「自己PR」にかけて天才であった。
間違ってはいけない!勝海舟はサンフランシスコに行っただけである。
# 例えば、勝は著書「氷川清話」で嘘を書いています。
http://www5.wind.ne.jp/cgv/taiken.htm
米人が動かした咸臨丸
 ワシントン造船所の記念写真は勝海舟は写っていないから、使節ではなかったのかという
質問がよくでる。勝の乗った咸臨丸は使節の護衛船という名目でサンフランシスコと日本を
往復しただけでワシントンには行っていない。
その咸臨丸はブルック大尉ほか10人のアメリカ人船員が頼まれて乗り込み、彼らの力があって
初めて2月の北太平洋の荒波を乗り切ることが出来た。
ところが「日本人だけで太平洋を横断した咸臨丸」という話が明治以降の 
#^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^この嘘の出所が「氷川清話」
日本の国威発場に利用され、勝が使節のように宣伝され錯覚されてきた。
アメリカ人船員については「頼まれてアメリカの水兵たちを乗せてやった」
#この嘘の出所も「氷川清話」^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
となる。咸臨丸の帰国に当たっても、心配だから、と木村摂津守はブルック大尉に頼んで再び
アメリカ人船員5名に乗ってもらって帰国している。
航海中、勝は年下の木村摂津守が軍艦奉行として乗り組んでいることがおもしろくない。
「あいつは家柄でえらくなった」と自分が艦長ではなく教授方頭取という役であることを
ひがみ、ふてくされた言動で乗組員の非難を受けていた。そして「船酔いが激しく航海の
大部分を船室で過ごすこととなった。」(ブルック『咸臨丸日記』及びニューヨークタイムズ
1860,4,17)と報道されるほどだった。
# つまり、勝海舟は、その小物ぶりで「恥の輸出」をしただけ ....
木村の従者として乗っていた福沢諭吉は、明治になっても勝の態度に不快なものを抱き
続けていた。
# 徳川慶喜が、もう少し「まとも」な人物であれば、幕府側の最も有能な人材たちを含む
# 新政権を作る機会は十分あったと思います。
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2019/06/19/111115
彼の父である徳川斉昭が、ありとあらゆる方面で敵を作るトラブルメーカーだった
※実はこの父親の困った性格は、慶喜にも受け継がれており。のちに(松平)春嶽も
さんざん悩まされる
斉昭は、春嶽や島津斉彬のように柔軟性を発揮するわけでもなく、強硬な攘夷を主張。
井伊直弼や堀田正睦と真っ向から対立
春嶽と一橋派に属していた斉彬の弟・島津久光は、慶喜の問題ある性格に散々悩まされます。
参預会議が決定的に破綻したのは、中川宮邸(久邇宮朝彦親王)での会議
議題は「横浜鎖港問題」
これは、攘夷を行いたい孝明天皇の意に沿うために議題にのぼったもの参預諸侯は、そんな
ことは不可能だとして開港継続を支持していました。しかし、慶喜は諸侯牽制のためだけに、
不可能であると理解しながらも、閉鎖を支持
この日の会議でしこたま酒を飲んだ慶喜は、宮をにらみ付け、春嶽、久光、宗城を指さし
ながら、こう言いました。
「この三人は天下の大馬鹿者、天下の大悪人ですぞ。将軍後見職である私と一緒にしないで
いただきたい」
# 「それが「将軍後見職」の言葉ですか」と突っ込みたくなります^^; 
「参預会議」で慶喜に幻滅していた久光は、彼に対して不信感を抱いていました。慶喜と
久光は対立し春嶽はそれを宥めるだけで精一杯。久光は、もはや幕府はこれまでである、
と見限り、武力倒幕に舵を切る
# その後の戊辰戦争でも、鳥羽伏見の戦いで部下を見捨てて逃げるとか江戸に敵軍が接近する
# のを無為無策に放置し、江戸が戦場になって民衆に被害が出る危険を無視するとか、見苦しい
# にもほどが....
# 勝海舟の江戸開城交渉がむやみにもてはやされていますが、そもそも、小栗の意見に従って
# 小田原の手前あたりで迎撃すれば、江戸が戦場になる危険は発生しなかったわけで ....
# また、小栗は不当に殺されさえしなければ、後半生で教育者として名を残したかもしれない
# という一面もあります。
http://www5.wind.ne.jp/cgv/taiken.htm
権田を隠棲の地に選んだ
権田に移ってからは、私学校設立の構想を語って次代のために若者に新しい時代に対応できる
教育を施し「いずれこの谷から太政大臣を出して見せる」と村人に夢を語った。実際それは
可能だったかもしれない。なにしろこの時2ヶ月間、権田村には上野介をはじめ用人塚本真彦、
家臣荒川祐蔵、佐藤藤七とアメリカ帰りがじつに4人もいたのだから
# 接した期間は長くないにも関わらず、その地の殿様というだけでは説明できない程度に村人
# から尊敬されていた様子を伝えるエピソードがあります。
昭和4年、上野介の遺徳をしのび非業の最期を悼む村民は寄金を集め、この処刑地に顕彰
慰霊碑を建てる。建碑責任者の市川元吉村長は、高崎署署長の呼び出しを受ける。
「碑文に罪なくして斬らるとあるが、斬ったのは官軍だ。天皇様の軍隊が罪のない者を斬る筈が
ない、あの碑はおだやかではない、なんとかしろ。」と署長は告げた。
# 実際には「官軍」は罪のない人を殺し過ぎていますが ....
困った市川村長は、碑の撰文揮毫をした京都大学法学部教授蜷川新に手紙を送った。蜷川の母は
上野介夫人道子の妹はつ子である。
「待っていなさい。田中(田中義一元首相)に伝えるから・・・」
という蜷川の返事があった後、署長の話は沙汰やみとなって、今も顕彰慰霊碑は建っている
じつは、蜷川はこの碑文の他にもう一枚「幕末の偉人小栗上野介終焉の地」を送ってきている。
どちらにしようか、と協議の末、やはりこちらが本当だ、と選んだのが問題になった碑文。
選んだ村人の見識も立派だと思う。このような散文体の碑文は珍しいといわれる。
もう一枚は現在村長室に掲げられている。
# 小栗は新聞の発行など、幕府は採用しなかった近代国家の要素も大体押さえています。
# 廃藩置県相当の事も提案したようです。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki2/oguri.htm
新聞の文明社会に欠くべからざるものであることに気づいた一点だけでも、当時にあっては、
開明である。小栗はアメリカでの条約批准交換後、ヨーロッパ各国を歴訪する問、多くの新聞を
読んだに違いない。帰国後、さっそく、新聞発行を幕府に献策している。
むろん幕府の事業としてであり、その担当には福沢諭吉を推した。
...
幕府の役人といえば、ただ権威にしがみついた人間ばかりであったように、勝などは後年
書いているが、巧妙におのれの保身と栄達のために、恩義を捨て、武士の誇りを捨ててまで
薩長に寝返った勝海舟ごときには、こうした非凡の人物のことはわからない。
小栗のことを、「彼は徳川氏一点張りにして大局の眼なし」などと誹っているのは、おのれの
卑劣さを物語るものでしかない。
幕府の中枢にありながら、郡県制度を提唱し、会社を作って外国と経済取引で対等たらんと
上申した者に大局を見る眼がなかったとは、どこを押せば出る言葉か。
# 小栗上野介の事績については、下記書籍が現時点の決定版らしい。
http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/recommend/?p=70
「小栗上野介の生涯」 坂本藤良著
著者の坂本藤良氏は専門が経営学であり、この横須賀製鉄所建設にあたり、幕府財政が窮乏して
いる中で巨費を捻出した小栗の財政家としての手腕、近代的マネジメント手法の導入など経営者
としての功績などにも触れています。
また、坂本龍馬の海援隊の創設とほぼ同時期に「兵庫商社」という商社を幕府主導で設立して
います。この商社は、幕府崩壊に伴い消滅してしまいますが、組織の構成や出資額からみて、
筆者は「日本最初の株式会社」という評価をしています。
https://bakumatsu.org/men/view/14
エピソード・逸話
教科書には載っていない興味深いエピソードの数々。
英語のcompanyを「商社」と訳したとされている。
名言・辞世の句・最後の言葉
小栗上野介が語ったといわれる言葉。人柄や当時の心情が見えてきます。
「お静かに」
自身の斬首の直前、口論を始めた村人と明治政府の役人たちに。
「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」
幕臣・鈴木重嶺(佐渡奉行)の「費用をかけて造船所を造っても成功する時分に、幕府は
どうなっているかわからない」という言葉に答えたものである。

1860年(安政7年1月18日) - 日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする
遣米使節団が浦賀を出港。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日米修好通商条約
https://ja.wikipedia.org/wiki/万延元年遣米使節
# 小栗上野介を含む。
https://ja.wikipedia.org/wiki/小栗忠順
代表は新見であったが、目付の小栗が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。
新見をはじめとして同乗者の多くは外国人と接したことがなく困惑していたが、小栗は
詰警備役として外国人と交渉経験があるため落ち着いており、そのため代表に見えたと
される。
https://kotobank.jp/word/小栗忠順-40112
https://r-ijin.com/oguri-tadamasa/
https://rekijin.com/?p=21324
https://serai.jp/hobby/364959
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm
西軍(明治新政府軍)によって罪なくして水沼河原で家臣三名とともに斬首される。翌七日、
養子又一も高崎城内で家臣三名とともに斬首される。
西軍(明治政府軍)は江戸から運んであった家財をすべて没収し、高崎・嶋屋で競売に付して
売上げを軍資金として持ち去った。明治政府が行った「強盗殺人」と言える。
このため明治政府が始めた学校教育では小栗上野介の日本近代化の業績を隠し、逆賊視して
無視抹殺してきた。小栗上野介が知られていない理由である。
...
小栗上野介の言葉
「一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」
福地源一郎著「幕府衰亡論
# 明治国家によりよく当てはまる(+滅亡過程での国内外の災厄が極めて大きい)。.
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm
「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない。私は幕臣である以上、幕府の為に
尽くすべき身分だが、それも結局は日本の為である。幕府のしたことが長く日本の為となり、
徳川の仕事のおかげだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。
同じ売家にしても土蔵付き売据えの方がよい」
# この時代で Statesman という意味での政治家は、彼一人だったかも。

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