平成30年8月25日参拝
・畠田 白山姫神社 奈良県北葛城郡 王寺町畠田8丁目1965
・下牧 伊邪那岐神社 奈良県北葛城郡 上牧町下牧5丁目512
昨年に引き続き、今年も三郷町で演じられる「ふたり歌劇」を楽しみに奈良までやってきた。
午前中はのんびりと神社をめぐり歩く。しかし、今年はこの酷暑の炎天下^^;歩きまわるにはちょっとがキツかったわ~。
昨年は、何も知らず偶然にも太子道を歩きながら白山神社を巡らせてもらったのですが、まさか^^今年も歩くことになるとは・・・。聖徳太子と白山神社^^なんか御縁があるのかしら?
◆畠田 白山姫神社 ( 奈良県北葛城郡王寺町畠田8丁目1965 )
白山姫神社は、JR和歌山線の畠田駅から南南西へ600m、国指定史跡の尼寺廃寺(にんじはいじ)跡の西側の丘の上に鎮座する(尼寺廃寺 / 聖徳太子建立の葛城尼寺とする説もある)。神社鳥居前には太子道「太子葬送の道」が通る。
太子道(たいしみち)
・筋違道(すじかいどう)・・・斑鳩と飛鳥を結ぶ(約20キロ)
斑鳩町高安付近から南東に延びる道、聖徳太子が飛鳥へ通うために利用した道。
・太子葬送(ひるめ)の道・・・斑鳩と河内国磯長(しなが/大阪府太子町)を結ぶ(約24キロ)
法隆寺から王寺町を経て大阪府太子町の叡福寺にある太子の墓へ至る道。
斑鳩宮で亡くなった聖徳太子の遺体を御廟(ごびょう/霊を祀る殿堂)のある磯長へ運んだ道。
石鳥居は、もと明神山の送迎太神宮に天保2年(1831)奉納されていたもので、神宮が撤去された後にこの場所に移された。
鳥居の足元前には「送迎太神宮道」と刻まれた道標が石段に使われていて昔が偲ばれます。
http://www.town.oji.nara.jp/kankobunkasuports/rekishi_shiryoshitsu/rekishi/754.html
『送迎(ひるめ)』の起源
太子が磯長(しなが/大阪府太子町)にある自分の墓まで視察へ行った際、斑鳩からの送りの使いと、磯長からの迎えの使いがちょうど落ち合った場所だったようで、それも昼飯時、「送迎」と書いて「ヒルメシ」→「ヒルメ」に転訛していったのだとか。送迎越えは河内と大和の国境、伊勢街道の宿場で、同地の明神(送迎)山からヒヨリを見たことから「 ヒヨリメ」→「ヒルメ」に転訛したなど。
鳥居をくぐり石段の参道を登ると左手に香塔寺(こうとうじ)が隣接する。更にその奥に神社の境内が広がっている。
この香塔寺の呼び名の訛から、俗に白山姫神社は「コトリの宮」とも呼ばれているそうです。
拝殿
『大和志』によればもと火幡神社の摂社だったとある。畠田地域の氏神として、火幡神社と氏子を二 分している。
-境内の案内板より-
創祀は貞観三年(西暦862年)とされている。
元禄九年(西暦1696年)三月に奉納されている石灯には白山権現御神前と刻され加賀白山と関係があったことが伺える。
火幡神社を中心とする産業地として、農業に欠かせない水、明神山の岡象女命とともに白山姫神社の御祭神(白山比咩命)は五穀豊穣を祈願する神として、厚い信仰を集めていた。
また見事な石造唐獅子一対は、弘化二年(西暦1845年)十二月に氏子が奉納したものである。
境内には摂社二社があり、金比羅神社と神明造りの春日社である。
本殿
境内摂社二社 (金毘羅神社? / 春日社?)
(本殿左) (絵馬殿右手)
絵馬殿(拝殿左)
◆下牧 伊邪那岐神社 ( 奈良県北葛城郡 上牧町下牧5丁目512 )
白山姫神社から東に見える小高い山(片岡城跡)を目指す。
畠田駅の東側に流れる川に架かる橋を渡ると、急な勾配が続く細い道が現れる。舗装はされているものの、ここに来てこの坂道はしんどかった(笑)。チェリーピンクのさるすべりの花からエールをもらう^^v
暫しの坂道を登り詰めると、今度は平坦な道をくねくねと山の中を歩き、伊邪那岐神社に到着。
拝殿
本殿
-境内の案内板より-
御祭神 伊邪那岐命 相殿に 春日、八幡、住吉、稲荷の神を祭る。
創建年代不詳、もと東田口の忍山(しのんやま)にあったが、疫病が流行したので静寂の聖地を求めて現在地に移したという
(移転の時期は不詳)旧地は住宅化して(現在の片岡台三丁目あたり)その頃は五社神社といっていた。
また足利時代の末期に片岡新助がここに城を築き、春日、八幡の両神を守護神として祭ったという伝承がある。
社殿は流れ造りで明治12年の造営、昭和43年改築されている。
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