「日本一の兵」と称えられた名将真田幸村。驚いたことに、その首を討ち取った武士は福井の人だという。その人物に迫るべく県立図書館で開催された企画展を訪れてみた。
以下、『真田幸村を討った士・西尾仁左衛門』の展示解説から抜粋させていただきました。
慶長19年(1614)大阪冬の陣、徳川方は20万を超える大軍で大阪城を包囲し、越前からは若き当主、松平忠直率いる2万余の軍勢が加わりました。越前勢は出城の真田丸近くに布陣し、勇猛果敢に攻めますが、堅い守りにさえぎられ、大勢の犠牲を出しました。しかし、慶長20年(1615)大阪夏の陣では、越前勢は大阪城への一番乗りを果し、最多の首数をあげるなど、他にぬきんでた活躍をみせます。なかでも真田幸村を討った功績は大きなものでした。
展示されていた『越前忠直卿大阪御軍備覚書』をみると、越前勢の先鋒一番備に鉄砲足軽を率いる武頭として、西尾仁左衛門の名があります。 大阪夏の陣で徳川方が討ち取った首数は、14,534首(18,864とも) 越前勢は、3,753首(3,652とも)といわれ、その中でも西尾は13の首数をあげる活躍をみせました(『越藩史略より』)。
では、その西尾仁左衛門(?~1635)とは、実名は宗次(むねつぐ)。初めは宮地久作と名乗っていましたが、西尾是尊の養子となって、西尾久作と改名。その後は通称を図書(ずしょ) ついで仁左衛門と改めています。はじめ甲斐竹田家の家臣で遠江国(静岡) 高天神城主将の横田甚右衛門に属し、文禄2年(1593)結城(茨城)において、結城秀康に知行200石で召し抱えられました。慶長5年(1600) 秀康の越前国拝領にともない、北庄(のちの福井)に入るころには、知行は700石にまで加増されていたようです。
『源忠直碁御家中給帳』によれば、二代目藩主の松平忠直の頃は700石とあり、弟の忠昌が藩主の時期には1800石と増えている。そして更に大坂の陣以後、敵将幸村を討ち取った西尾仁左衛門はその恩賞として知行3800石(与力七騎分ふくむ)の大身となっている。
しかし、西尾仁左衛門はどのようにして幸村を討ち取ったのか?
幸村の没後間もない頃から様々な臆測が飛び交ったようです。果たしてその真相は・・・? つづく^^;
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