それを読んでからずいぶん時間が経つのだけれど、なんとなく残っていたことがある。
「僕は窓がひとつ欲しい」
「フェルメールの絵のような光が、部屋のなかに射し込む窓がひとつ欲しい」
季刊誌「チルチンびと」8号(1999spring)、木工デザイナー:三谷龍二さんの家の記事の中の言葉。
設計は、中村好文さん。
三谷さんの家は、物置だった小屋を改修し少し増築してできた、8坪ちょいの小さな家だ。
中村さんらしい、過不足なく、やさしく、楽しい家に仕上がっている。
フェルメールという画家の絵をそんなには知らない。ただ、窓から射し込む光が印象的なのは覚えていた。
「フェルメールの・・・窓がひとつ欲しい」、三谷さんのその言葉が残っていたのだけれど、それよりも、その小さな家が、なんとも楽しくて、写真や図面を何度も眺めていた。
最近の住宅の傾向は、大きなガラスの開口があって、あっけらかんとしている。郊外に建つ家ならば、それはいいのだろう。でも都市部では、その開口にブラインドやカーテンなくしては、実際はむずかしい。こちらからオープンに景色が見えるということは、あちらからも丸見えという事だ。なんとも気恥ずかしい。
「そんなの気にしない」
そうゆう施主もいるのかもしれない。しかし、その丸見えの家のまわりは、なんだか見ないようにこそこそしなければならない。自分が悪いわけではないのに。。
まあ、それはおいといて・・・
その大開口から入る光は「射し込む光」なんていうものではなく、圧倒的な明るさの固まりだ。
「家の中にいながら外にいるような」感じ、というのはわかる。それはそれでいいものだと思う。
ただ、その光はドライな感じで、あまり情緒がない。
あっけらかん、とした住宅が、なんだか心を逆立てる感じがしていた。「すごいな」とは思うのだけど、でもその熱はすぐに冷めてしまう。そんな事を感じている中、ふと、文頭の三谷さんの言葉を思い出したのだ。
「フェルメールの絵のような光」は、とても繊細でウエットな感じだ。
光をそっとさわれるような。。
窓には、採光換気、という機能もあるし、「その景色を見たい」から、という意味もある。でも、当り前にあって、均質な、外の明るさ(太陽の光)を、なにか物質のようなもの変換する装置でもあるのだ。
そんな事を、改めて、三谷さんの家の話、を読んで思った。
・・・
光が物質である。。
そんな事をずっと前に感じた事があった。
それは、栃木県日光の大谷石採掘場に入った時の事だった。
何十メートルも高さのある採掘場の奥で、天井部分の一部が開いていて(崩れていて?)そこから、光が射し込んでいた。薄暗い採掘場の中に、光の束があったのだ。
『それを描きたい』
そう思い、家の戻ってから、スケッチをした。
・・・
フェルメールは、そんな思いを持ち続けていたのだろうか・・