日本旅館に泊ると、客室の入口に靴やスリッパを脱ぐスペースがある。一般家屋ならば、三和土(たたき)とか玄関と呼ぶのだろうが、旅館の場合、あれは何と言うのだろう?
小波の場合、このスペースがない。部屋のドアを開けると同じ高さで畳が敷いてある。今は下足でホテル内を歩けるが、もとはホテル内には旅館のように靴を脱いで上がるようになっていたのかもしれないSmarTone 上網。
スリッパはドアの外の廊下に置くようになっているが、ほかの部屋は靴やスリッパを脱ぐスペースがあるのかもしれない。
結構気に入ってしまった。
部屋は清潔でデジタルテレビもきれいに映るし、なにより良かったのは縁台というか、ホテルではウッドデッキと呼んでいるテラスがあること。このテラスを通して中禅寺湖が一望できるのだが、なんか隠れ家というか庵というか、そんな感じですこぶる居心地が良い。
中禅寺温泉 ホテル湖上苑
中禅寺温泉 ホテル湖上苑
洗面所もトイレも部屋からはそう離れていないし、ほかの部屋にはトイレ・洗面台があるので、ほぼ小波専用といった感じ。温泉があるからバスなんて関係ないし。
もう一度泊まるなら、やはり小波にしよう・・・安いし。
ホテル紹介的にいえば、湖上苑はアットホームな洋風旅館。和風ホテルか? 温泉は小さいが岩風呂で露天もある。食事は洋風懐石コースといった趣で箸で食べる。
なんか、湖上苑の紹介みたいになっちまったな。
夕食の手伝いの女性と話していたら、彼女の家が日光プリンスホテルの隣だと知って、プリンス談義になった。地元出身の支配人や料理人の消息やら、彼女の家が国有地に建っていることなど・・・
旅の出会いというのは予想外で楽しい。
夕方、中禅寺湖畔を散歩していたら、若者4人組に声を掛けられた。11月に結婚するカップルと友達二人。なんでも披露宴上映用のビデオを撮影中だとかで、カップルに頼まれて中禅寺湖をバックに写真を撮ってあげるオジサンを演じてほしいと言う。二つ返事で引き受けて、船をバックに2枚撮ってあげた。
俺が撮った写真も使うかもしれないと言うので、どうせ撮ってあげるならいい写真をと、もう一枚はズームの使い方を聞いて撮ってあげた。地元日光か宇都宮あたりの若者なのだろうが、気持ちのいい若者たちだった。
monkey 出会いといえば、動物との出会いもあった。日光プリンスから竜頭滝に戻る道を鹿が横切るのを見つけ、人家の横で草を食んでいるところを写真に撮った。慣れているのかカメラを向けても逃げもしない。
もう一つは、中禅寺湖畔のアジアンガーデン屋上に2匹の猿を見つけた。遠くからズームで写真を撮ったが、こちらは危害に気をつけないといけない。あとで地元の人に話を聞いたら、アジアンガーデンを根城にしている猿だということだった。
菖蒲が浜では産卵で河口に集まる鱒を眺め、鳶の飛ぶ姿と声を聞く。森を歩けば、野生動物の糞だらけ。何の糞だろうと想像するのも楽しい。
そうそう、二荒山神社の神水について、6/23「奥日光2011春─二荒山神社の神の水」で紹介したが、頒布1周年記念で、10本まとめて買うとクーラーパック・プレゼントというキャンペーンをしていた。
当然のことながら、クーラーパック欲しさに買った。
coolerpack クーラーパックにはペットボトルが6本入る。1本1本二荒山神社特製のビニール袋に入れ、クーラー・パックに収められて家に鎮座している。
神水6本入りのクーラーパックからは、霊気と神々しさが漂い出ている。連れ合いは、クーラー・パックの開運・金運の文字を見て、オータムジャンボ宝くじを供えると言っている。
※写真は上から順に、湖上苑・小波から見投資產品る中禅寺湖、夕食の一部、鹿(龍頭滝)、猿(中禅寺温泉)、鱒(菖蒲ヶ浜)、神水「二荒」のビニール袋とクーラーパック
てスクリーン数も増え、地味な映画でも単館上映されるようになったが、当時の映画館は大手の配給会社の系列下にあり、独立系の映画は旧日劇にあった日劇文化や新宿文化を除けば、よみうりホールのような多目的ホール以外に上映する場所がなかった。
ATGと略称された日本ア濾水器價格ートシアターギルド配給の作品を上映したのは、上記2館、日劇文化と新宿文化で、大手映画会社から独立した篠田正浩、吉田喜重、大島渚や新藤兼人といった監督の実験作・意欲作を生み出した。
これは想像なのだが、山本薩夫のように大作を手掛けていた監督であっても、「ベトナム」のような独自配給の商業ベースに乗らない作品は、一般の映画館では上映できなかったということなのだと思う。
現在なら単館であっても、どこかのシネコンで上映できただろうにと思う。
それにしても、よみうりホールのある読売会館はオープン以来、55年が経過している。耐震や補強工事は行われてきたのだろうが、地震の多い昨今を思うと、天井を見上げながらちょっと心配になる。
さて、「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」だった。
サッチャーについては改めて書くまでもない。ただ私自身、サッチャーについて詳しく知っているわけでもないし、鉄の女と異名を取ったイギリス初の女性首相といった程度のことしか知らない。英国病といわれたイギリス経済を立て直した功労者とも評価されているが、一方では新保守主義を推し進めた強硬なタカ派としての印象も強い。
映画にも出てくるが、サッチャー前後はヒース、ウィルソンとメージャー以降の首相しか憶えていない。ウィルソンとサッチャーの間にキャラハンがいたことを知って、そういえばそんな人もいたか程度の居屋貸款。
サッチャーの首相任期中に、IRAの爆弾テロやフォークランド紛争があったことが描かれるのを見ながら、ちょっと意外な気がする。サッチャー以前のような気がしていたからだ。
映画のチラシを見ると、サッチャーの首相在職は1979~1990年だと書かれている。そう言われると、確かにIRAもフォークランド紛争もその頃だったと思う。
もっともIRAについていえば、それ以前から民族紛争はあって、北アイルランド紛争が激化するのは1970年頃からである。IRAとの和平合意は1998年。フォークランド紛争は、1982年。
改めて思うのだが、人間歳をとってくると、十年、二十年前のことがつい最近の出来事のように思えてくる。とりわけ、学生時代のことは憶えていても、社会人になってからのことは、ほとんど時間的な経過がわからなくなっている。
サッチャーの頃は、アメリカの大統領はレーガンで、日本の首相は中曾根康弘だったと思い出すと、ずいぶん前のことだと気がつく。ベルリンの壁の崩壊は1989年だった。
サッチャーとレーガンは、ともに晩年認知症となる。中曾根さんは今も頭脳明晰である。
映画は食料品店の娘だったサッチャーが政治家を志し、33歳で下院議員に当選し、44歳でヒース内閣の教育相、49歳で保守党党首、53歳で首相となっていく生涯を、現在の認知症の彼女を通して描いていく。
彼女の経歴も公知のことだし、これ以上ストーリーに触れるのはよそう。
この映画はサッチャーというひとりの女の物語であり、政治映画でもなければ、政治家サッチャーの評伝でも伝記でもない。その点では、サッチャーに対する見方は非常に冷静で中立的に描かれている。
ただ率直な感想を言えば、認知症となった彼女の描き方がいささか感傷的であることが気になる。それは、邦題が「鉄の女」ではなく「鉄の女の涙」としたことからもうかがえる。
まあ、この映画はサッチャーの評伝でも伝記でもなく、サッチャーというひとりの女のドラマなのだから仕方がないのかもしれない。感情移入させなければドラマとして成立しないし、観客の共感を呼ぶこと韓式紋眉
。
だから、この映画に「鉄の女」を期待する向きは、肩すかしを喰らうかもしれない。「鉄の女」もやはり女であるという映画であり、女性映画なのである。
サッチャー役のメリル・ストリープの縁起には舌を巻く。なるほど、主演女優賞という演技だ。
私が初めて彼女を観たのは「フランス軍中尉の女」(1981)だったが、書き始めると長くなるので止める。
この映画の最大の見どころは、3人のサッチャーを演じるメリル・ストリープにある。
1人目は教育相となってから首相になるまでのサッチャー。それは私たちが知っているサッチャーではなく、どこか頼りなげでもある。
2人目は首相となったサッチャー。私たちがよく知っている鉄の女サッチャーだ。
3人目は認知症のサッチャー。私は違和感を感じたが、メリル・ストリープの演技は素晴らしい。
それぞれのサッチャーがどのように演じられるかは、見て確かめるしかない。
ATGと略称された日本ア濾水器價格ートシアターギルド配給の作品を上映したのは、上記2館、日劇文化と新宿文化で、大手映画会社から独立した篠田正浩、吉田喜重、大島渚や新藤兼人といった監督の実験作・意欲作を生み出した。
これは想像なのだが、山本薩夫のように大作を手掛けていた監督であっても、「ベトナム」のような独自配給の商業ベースに乗らない作品は、一般の映画館では上映できなかったということなのだと思う。
現在なら単館であっても、どこかのシネコンで上映できただろうにと思う。
それにしても、よみうりホールのある読売会館はオープン以来、55年が経過している。耐震や補強工事は行われてきたのだろうが、地震の多い昨今を思うと、天井を見上げながらちょっと心配になる。
さて、「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」だった。
サッチャーについては改めて書くまでもない。ただ私自身、サッチャーについて詳しく知っているわけでもないし、鉄の女と異名を取ったイギリス初の女性首相といった程度のことしか知らない。英国病といわれたイギリス経済を立て直した功労者とも評価されているが、一方では新保守主義を推し進めた強硬なタカ派としての印象も強い。
映画にも出てくるが、サッチャー前後はヒース、ウィルソンとメージャー以降の首相しか憶えていない。ウィルソンとサッチャーの間にキャラハンがいたことを知って、そういえばそんな人もいたか程度の居屋貸款。
サッチャーの首相任期中に、IRAの爆弾テロやフォークランド紛争があったことが描かれるのを見ながら、ちょっと意外な気がする。サッチャー以前のような気がしていたからだ。
映画のチラシを見ると、サッチャーの首相在職は1979~1990年だと書かれている。そう言われると、確かにIRAもフォークランド紛争もその頃だったと思う。
もっともIRAについていえば、それ以前から民族紛争はあって、北アイルランド紛争が激化するのは1970年頃からである。IRAとの和平合意は1998年。フォークランド紛争は、1982年。
改めて思うのだが、人間歳をとってくると、十年、二十年前のことがつい最近の出来事のように思えてくる。とりわけ、学生時代のことは憶えていても、社会人になってからのことは、ほとんど時間的な経過がわからなくなっている。
サッチャーの頃は、アメリカの大統領はレーガンで、日本の首相は中曾根康弘だったと思い出すと、ずいぶん前のことだと気がつく。ベルリンの壁の崩壊は1989年だった。
サッチャーとレーガンは、ともに晩年認知症となる。中曾根さんは今も頭脳明晰である。
映画は食料品店の娘だったサッチャーが政治家を志し、33歳で下院議員に当選し、44歳でヒース内閣の教育相、49歳で保守党党首、53歳で首相となっていく生涯を、現在の認知症の彼女を通して描いていく。
彼女の経歴も公知のことだし、これ以上ストーリーに触れるのはよそう。
この映画はサッチャーというひとりの女の物語であり、政治映画でもなければ、政治家サッチャーの評伝でも伝記でもない。その点では、サッチャーに対する見方は非常に冷静で中立的に描かれている。
ただ率直な感想を言えば、認知症となった彼女の描き方がいささか感傷的であることが気になる。それは、邦題が「鉄の女」ではなく「鉄の女の涙」としたことからもうかがえる。
まあ、この映画はサッチャーの評伝でも伝記でもなく、サッチャーというひとりの女のドラマなのだから仕方がないのかもしれない。感情移入させなければドラマとして成立しないし、観客の共感を呼ぶこと韓式紋眉
。
だから、この映画に「鉄の女」を期待する向きは、肩すかしを喰らうかもしれない。「鉄の女」もやはり女であるという映画であり、女性映画なのである。
サッチャー役のメリル・ストリープの縁起には舌を巻く。なるほど、主演女優賞という演技だ。
私が初めて彼女を観たのは「フランス軍中尉の女」(1981)だったが、書き始めると長くなるので止める。
この映画の最大の見どころは、3人のサッチャーを演じるメリル・ストリープにある。
1人目は教育相となってから首相になるまでのサッチャー。それは私たちが知っているサッチャーではなく、どこか頼りなげでもある。
2人目は首相となったサッチャー。私たちがよく知っている鉄の女サッチャーだ。
3人目は認知症のサッチャー。私は違和感を感じたが、メリル・ストリープの演技は素晴らしい。
それぞれのサッチャーがどのように演じられるかは、見て確かめるしかない。