国民が持つ憲法制定権力が、憲法制定を通じ、そのような存在としての憲法を確定することで、無限定な存在だったものが、憲法、という枠の中に、自らを封じ込めることになる。もはや、無限定な存在ではなくなる。
日本国憲法も、そういう存在だから、その基本原理である、国民主権や、基本的人権の尊重、といったものは、改変できない。基本的人権は、日本国憲法においては、憲法以前から存在するもので、憲法制定権力により、それが確認され憲法で定められたものだから、その本質に反する憲法改正はできない。
本質を変えるとすれば、改正、という連続性は途切れざるを得ず、革命によるしかない。明治憲法と日本国憲法の非連続性は、八月革命説で説明されている。ポツダム宣言受諾を契機に、一種の革命が起きたと捉える。
そういう意味で憲法改正には限界がある。その限界を超えることは改正ではなく革命であり、現行の日本国の憲法秩序を根本から否定することになる。国会での憲法改正は、あくまで限界内でしかできないから、限界を超える改正は、国会ではできない。日本国憲法の改正手続ではできない、ということになる。
例えば、権利は、国が決めた範囲内で行使できる、といった改正は、日本国憲法の本質には反するから、改正の限界を超えるだろう。明治憲法には、法律の留保、という定めがあったから、多分、そういう改正を目論んでいる人の発想は、明治憲法の影響を受けているのではないかと思われる。
芦部先生が御存命なら、こういったことを、特に、「直弟子」のような人たちには、もっと精緻に、みっちりと言って聞かせるんじゃないかな。憲法改正の限界を超えた改正を企むような直弟子は、破門、絶縁になるだろう。芦部説の基本には、日本国憲法の基本原理に対する強い支持、信頼がある。
それは、日本国憲法が、近代立憲主義の系譜に連なる、世界的にも正当とみなされ、多くの国でも支持されている考え方に立脚しているからで、占領下で制定された、という点を割り引いても、強い正当性を持っていることによるからだと思う。
占領下で制定されたことや、押し付けられた、といった議論が、占領が終わった後、ずっと今日まで存在するにもかかわらず、それが大きなものにならなかったのは、日本国憲法が持つ、そういった強い正当性によるものだろう。
もちろん、日本国憲法も、改正すべき点はあるだろうし、そういう議論を活発に展開することも必要。ただ、それが持つ強い正当性をどこまで否定できるか、ということは、考えるべきだし、改正に限界がある、ということも、床屋談義ならともかく、国政に携わるような政治家であればわきまえるべき。