兎月庵日記

五句三十一音詩は名称を変えつつ時代の波をくぐり抜けてきた。衰退と復活、上記視点から五七五七七の未来図を航行しています。

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2024-10-27 21:20:23 | 日記

朝食の前に川西小学校で投票、食事後はワールドシリーズを観戦。わずかに歌集を読む。歩数は4,843歩だった。

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資料が語る一本亭芙蓉花

    四、もう一人の一本亭「大石真虎」

 ジャパンナレッジで「大石真虎(おおいしまとら)」(一七九二~一八三三)を引くと『国史大辞典』『日本人名大辞典』『日本人物文献目録』『根岸派文学集 饗庭篁村篇 大石真虎の伝』がヒットする。このうち長くなるが『国史大辞典』と『根岸派文学集 饗庭篁村篇 大石真虎の伝』を引用したい。まず『国史大辞典』である。

  江戸時代後期の画家。有職故実の研究をもって知られる。寛政四年(一七九二)尾張国名古屋門前町の医師小泉隆助の次子として生まれる。幼名を門吉、成人後は大石良雄を敬慕した姓を大石と改めた。通称は小門太・衛門七・寿太郎・良輔などといい、号を鞆舎(とものや)という。十五歳にして張月樵の門に入り、樵谷と称したが、師弟不和となり、離れて吉川義信について仏画を学び、さらに故実に堪能という大和絵の渡辺清に学んでみずから一家をなし、真虎と称した。不羈奔放の性格から師友に容れられず、諸国を歴遊した。その間古社寺・旧家の什宝を閲覧して見聞を深め、詳細な写生図や紙型標本を作り、故実書を書写して、往古の装束をはじめ、公武の有職故実、兵器の沿革などの考訂につとめ、執筆の歴史画は明確な根拠に基づいて表現したという。武将とその略歴を併記した『百将伝』は、菊池容斎の『前賢故実』の前駆として注目され、尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』の挿画は、その公家故実の抱負を示し、真虎の業績を慕った川崎千虎を通じて、明治の歴史画壇に大きな影響を与えた。晩年、名古屋に戻り、聾になり「つんぼ」の三字を書いた木札を胸にかけて歩行したという。天保四年(一八三三)四月十四日没した。四十二歳。同所大須真福寺に葬る。

 次に『根岸派文学集 饗庭篁村篇 大石真虎の伝』だが紙の『明治文学全集26根岸文学全集』(筑摩書房)があるので、こちらから引用する。

  大石真虎氏は尾張名古屋の医師小泉隆助の二男なり寛政四年に生る母は浪花の狂歌師一本亭芙蓉の娘なりと(氏たま〳〵一本亭と号することあり)

  松涛ひさ女のその後でもあろう(なお芙蓉花は「狂歌師」ではない。その対局である)。「大石真虎の伝」は十二回書き継がれているが「明治二十三年二月 春陽堂刊『小説むら竹』第十三巻所収」とある。



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