語るに足りる、 ささやかな人生

所謂、コロナ以前、コロナ以後、コロナと共に生きていく
というテーマで、自身の病気のこと、体調、雑文、日記、備忘録

思うようにいかない時、それはどう生きるかの問いだ

2020-07-26 12:17:52 | 人生
長雨と集中豪雨の間に、7月も終わりに近づいたことに気づかされた日曜。

あと少しで梅雨も明けるからね。

自分が痛いだの痒いだのの日々の憂鬱よりも、

豪雨によって、人、家、山々、人生が流され、

感染症にはいつまでたっても、数だけを叫ぶマスコミに厭き厭きし、

有効的な手段はアルコール消毒・マスク・蜜を避けるの原則しかなく、

いくら経済的な手段を講じても、永遠の禅問答のように感じられ、

正解は何もないこの世界。

世界はまるで”ちゃぶ台返し”のようだと言っても、

”ちゃぶ台”を知らない世代が関の山。

しかし、

また、脳裏に「尊厳」と「安楽」という文字が重いテーマとしてのしかかる。

最近起こった(実行されたのは昨年)、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者から依頼を受け、薬物を投与し殺害したとして、嘱託殺人の疑いで医師2人が逮捕された事件で、 

ここでは、自分のQOLのことを書き込む用としたが、
究極的に迫られる命題かもしれないと思ったからだ。

事件の解明は今後の捜査を待つしかないのだが、

「尊厳」と「安楽」

《自身もALS患者で、NPO法人「境を越えて」理事長の岡部宏生さんの話》 

私は48歳でALSを発症し、死にたいと何度も真剣に思った。でも社会の支援を受けて、こうして生きている。生きてみようと思えたのは、明るく前向きに他の患者や家族の支援をしている先輩患者を見たからだ。あんなふうに生きたいと思うようになった。
 ただ「生きたい」と「生きていける」とは違う。介護保険や障害者の生活支援サービスを十分に受けられ、介護者を確保できなければ、すべて家族に頼ることになる。経済的なことも含めて家族に負担をかけたくない、と生きることをあきらめる患者は多い。私も介護態勢をつくるまでに時間がかかり、ぎりぎりのタイミングで人工呼吸器をつけられた。
 「安楽死」には明確に反対だ。「安楽死」と同じように社会で使われている言葉に「尊厳死」があるが、自分でご飯を食べることや排泄(はいせつ)ができなくなるのは尊厳を失うことなどとされる。そうなのか。もしそうなら私は尊厳を失って生きている。
 尊厳という言葉でくくるからわかりにくくなってしまうが、尊厳死を選ぶということは、自分はこういう状態なら生きていたくないということ、つまり自殺そのものだ。これから社会の中で安楽死が議論されるなら、自殺をどう考えるのかを明確にしてほしい。
 今回はSNSを通じて患者と医師が知り合ったと報じられている。ALS患者は強烈な孤独感や孤立感に悩まされているので、その心の穴を埋めたくてSNSにつながりを求めることがあるかもしれない。コロナ禍では今まで以上に孤立しやすく、こうした傾向が強まらないか心配だ。


というテーマはそう簡単に答えが出るものではない。









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