無駄な独り言を言いながら、生を終えます

あまり閲覧されないことをむしろ望む、変なブログです。

小学校やめろと言う親、行きたい子供。

2022-08-19 18:38:00 | 日記
いじめられても小学校に行きたい!
家にいるよりはマシ!(家より学校の方がまだしも厭なこと不合理なことが少ない!)

と思っていたわたしですが、朝学校に行こうとすると「学校行くな!」という怒声が聞こえ、玄関でランドセルを引っ張られ、ランドセルに体重をかけられて転倒させられる、ということがよくありました。(言うのは父、ぶち倒し実行犯は母。)

そんなバカな! 子供に「学校行くな」なんて言う親がいるわけない!…とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、
いたんです。実話です。
わたしの父は、そもそも日本が嫌いだし、日本の義務教育への不信感があったのです。

家でせっかく独自の教義(物質主義は駄目だとか、天皇制は駄目だとか)を植えつけているのに、学校に行くせいで消費社会の悪風に染まる、君が代斉唱とか平気で言うような環境に晒される——だったら行くな!と。

「義務教育っていっても、罰金払えば行かなくていいんだ!」というのが父の口癖でした。(この言葉の真偽のほどは未だにわかりませんが。)

そんなに公立学校に行かせるのが嫌なら、めちゃくちゃ独自の校風で父も納得できるような私立学校でも探せばいいようなものですが、たぶん、そういうことではなかったんです。

要は、うちってカルトだったから!
外からのいかなる情報も、父以外の価値観も、子供に与えたくなかったのでしょう。

情報統制とか言うと大げさかもしれません。うちにはテレビも存在していて、世間の情報から全く隔絶されていたわけではありません。
が、しかし、
見たいテレビ番組を子供の私が勝手に選べたりする機会は、絶対になかったのです。
父が決めた番組を、夕食後に黙って三人で見る。これがルールでした。
クイズ番組なんかが中心で、アニメなどはほとんど見せてもらえませんでした。『サザエさん』『ハイジ』など、学校で話題に出るポピュラーなアニメを私は一回も見たことがなく、友達の話についていけませんでした。

普通は「教育に悪そう」なテレビ番組を避け、子供に害の無さそうな番組を選ぶ、という方向でセンサーシップが働きそうなものですが、うちの父はなにしろ「反権力の芸術家」なので価値観が逆で、「小市民的なものはダメ、でもアナーキーなものはいい!」ということで、『8時だよ全員集合』などはOKでした。(全員集合をPTAがワースト番組として名指しした、という話が逆に父の心の琴線に触れたようです。)アニメはほぼ禁止に近かったのですが、父が「ナンセンスで面白い」と判断した赤塚不二夫のアニメは一時期見ていた覚えがあります。(あまりに古い記憶なので題名などは失念。)

たしか小学校四年生ぐらいの時、みんなが急に『およげ、たい焼きくん』という歌を歌い出し、なんだなんだ、いったいどういうテレビ番組でどう流行っているどういうものなんだ⁇と、わたしは冷や汗をかきました。
知らないと言うとまたバカにされるので、みんなが歌う『たい焼きくん』を必死に聞いて覚えようとしました。
何とか覚えたつもりだったものの、「全校集会」とかいう場で、みんなでこの曲を歌いましょうとなった時、一人だけ、微妙な休符のところで4分の1拍ぐらい早く歌ってしまいました。(元うたを一回も聴いたことがないから仕方なかったのですが。)
千人以上いる全校生徒の中で、たった一人、わたしだけが、シーンとしている時に早く歌い出してしまった…
たかがたい焼きくん、されどたい焼きくん。わたし以外の小学校全員が、ひとり残らずテレビによって正しくインプットされていて微妙な休符のところで正しく沈黙していた——そのことがわたしには結構つらかったのです。ああ、究極の疎外感。いくら「みんなと同じ」ふりをしていても、異分子だということがこうやってバレてしまうんだな、とその瞬間強く思いました。

あまり楽しいことがなかった小学校時代。唯一の心の逃げ先は、食べることだったかもしれません。
(次回に続く)




第二次大戦のトラウマ、強制継承。

2022-08-19 02:52:00 | 日記
わたしの父は、「反権力」「反消費社会」「島国根性大嫌い」といった、かなり偏ったイデオロギーの持ち主でした。(「でした」と書きましたとおり、もう他界しました。)政治的活動をしていたわけではなく、職業は物書きだったのですが、まあ「左」の人です。

戦争でひどい思いをした結果そうなったのかと推測します。

父は終戦時、13歳でした。当然、実際に戦ったことはなく「軍国少年」どまり。
でも、というか、だからこそ、というか、戦争中はバッチリ洗脳されて、世界地図に次々と旗を立ててワクワクしながら「大日本帝国の大勝利」を信じこんでいたそうです。
子供は純粋で騙されやすい…。

いきなり敗戦となって、「今まで信じこまされてきたことは何だったんだ!」とショックを受けた13歳の父は、すべての価値観が転倒する中、急速に左翼思想に入り込んでいったようです。
 
その後、父は会社員にもならず、いかなるお勤め人にもならず、自宅で原稿を書く自由業を選びました。
そして、まるでロビンソン・クルーソーがフライデーをパートナー(?奴隷?)にするように、母と結婚。
わたしという娘が生まれると、家族三人だけのロビンソン島みたいなものが形成されました。

言い換えれば、ミニミニ北朝鮮みたいな専制国家です。父がジョンウンです。

父は何がしたかったのかと考えると、おそらく、敗戦で「国なんて信用できない!」、戦後は兄弟と金銭問題で揉めたりし「兄弟も信用できない!」など、人間不信のあまり、最小限の家族だけを従えてカルトみたいに家に引きこもりたくなった——そんなところでしょう。

母は専業主婦として、目が覚めている間は常に父の世話をし続けなければなりません。父は24時間自宅にいて自宅で仕事をしているので、無期限の住み込み女中みたいなものです!

1960年代や70年代は専業主婦が当たり前の時代だったとはいえ、ここまで四六時中、はべっていなければならない妻は、まず、いなかったでしょう。

母は父に隷属し溜まったストレスを子供虐待で発散していました。
わたしは母のサンドバッグにされ、ヒステリックに怒鳴られたり、殴られたり…。幼児の頃はよく「お尻を出せ」と言われて、裸の臀部を布団叩きでバシバシ叩かれたりもしました。

父は、わたしに手を上げることは決してありませんでした。暴力担当は、もっぱら母でした。

でも、叱責(口頭で怒る、怒鳴る)は、父にもしょっちゅうされていました。
父母二人がかりで何時間も怒鳴りつけ、説教! わたしがどう謝っても表現に文句をつけ全否定! 永遠のように抽象的な屁理屈が続く! という、二対一の虐待モードでした。

虐待といっても、わたしは、よくニュースに出てくるような「熱湯をかける」「何日も食事を与えない」「アイロンで皮膚を焼く」みたいなことをされていたわけではありません。
と言うと、「まあ大した虐待じゃなかったんでしょ?」と思われるかもしれません。
たしかに、命に関わる事はありませんでしたが、暴力よりさらに厭だったのが「よその人は関係ない!」とか言って、あまりに独自すぎる我が家ルールを押し付けられることでした。社会的孤立を強いられるというか。

例えば、小学校に入るとき、「手が器用になるから、鉛筆はナイフで削りなさい。鉛筆削り禁止。」と言われて、「ひごのかみ」という鞘付きの小刀を渡され…
ガタガタの手削りの鉛筆を持って登校…

昔の話といっても、わたしが小学校に入ったのは1972年です。既に誰もが「鉛筆削り器」で綺麗にスムーズに鉛筆を削っている時代です!
一人だけガタガタに手削りした鉛筆を持っていたら、「なんだそれ!」とみんなが驚き呆れ、わたしはたちまちボコボコに虐められました。当然だと思います。これでいじめにならない方がおかしいというものです。

学校に持っていく持ち物にも、我が家流の厳しいルールがあって、「マンガ(キャラクター)が描いてあるものは駄目。」(消費者社会に反対?という意味だったらしいです)「下敷きはセルロイドのものに限る。」(これに至ってはまったく意味不明…)とか言われて、かわいくない無地の、他の誰も持っていないようなアナクロ文房具を買い与えられてしまいました。
何度も言いますが、これでいじめにならない方がおかしいというものです。

こうして見事いじめられっ子になったわたしですが、学校の方が「家という地獄」よりまだマシだ、と思っていたので休むことなく一生懸命通っていました。

それがまた気に食わないのか、教育にも文句があったのか、親は信じられない言動を始めたのでした。
(次回に続く)