無駄な独り言を言いながら、生を終えます

あまり閲覧されないことをむしろ望む、変なブログです。

一人っ子政策

2022-08-23 19:30:00 | 日記
わたし(ニックネーム:城南)という子供は、独裁者のような父と、父に完全服従の暴力担当である母、という二人の大人に毎日ひどい目に遭いながら、「あーあ、一人ぼっちだなあ…」「世界中に、わたしのこの境遇を理解してくれる人なんて一人もいないんだなあ…」と絶望して生きていました。せめて一人っ子ではなくきょうだいでもいれば——家の中に年齢の近い子供が他にもいれば、わたし一人で集中攻撃を受けずに済むだろうに…。

しかし、「子供は一人っ子が理想的!」というのが我が家のポリシーだったので、いくら夢見ても弟や妹が到来することなどありませんでした。一人っ子というものがいかにいいものか、素晴らしいものか、が我が家では日々力説されており、その根拠は「兄弟は諸悪の根源」だからだそう。父は八人きょうだいの五男で末っ子(ゴナン、って、現代では口で発音してもにわかには理解できない感じですが)、母は四人きょうだい、で共に兄弟姉妹には厭な思いをしてきたらしい。詳しい事情は知りませんが、なんだかとにかく、両親とも兄弟関係を忌み嫌っていました。
「一人っ子が一番幸せなんだよー。」と、さも自分たちが賢明で思いやりあふれているかのように主張する両親でしたが、小学生ぐらいになって知恵がついてきたわたしの目には、きょうだいがいる友達が苦悩しているようには到底見えませんでしたし、「諸悪の根源」だか何だか知らないが、兄弟姉妹を蛇蝎の如く嫌っている友達なんて、全く見たことがありませんでした。
むしろ、きょうだいがいる人たち、楽しそうだ。
彼らは、毎日泣いているわたしとは別次元・別世界の天国に暮らしているように見えました。

さかのぼって、まだ幼稚園の頃、わたしは「世の中の子供はみんな、母親に両腕をつかまれて引きずり回され、ぶたれたり、布団叩きでお尻を叩かれたり、押し入れに閉じ込められたりして毎日泣いているのだ」と思いこんでいました。
しかし、ふとした幼稚園児どうしの会話から、他の子は「毎日泣いている」わけでもないし、「親にぶたれている」わけでもない、ということに気づいたのです。
これは、わたしにとって、天地がひっくり返るようなとんでもないリベレーションでした。
なんだ、こんなの、わたしだけなんじゃないか!
怒られもぶたれもせず、笑って生きてるやつらがいるなんて、ずるいじゃないか!

空想に逃避するしかなかった幼稚園時代のわたしは、頭の中でいつも、続きものの連載小説みたいな「おはなし」を考えていました。
題名は、『城南と冒険の旅』。
わたしが乳母車かリヤカーのようなものに乗せられ、それを、空想の「兄」たちが引っ張ってくれて、きょうだいみんなで世界中を旅する、という話です。
そのストーリーの中では、兄たちは5、6人いて、わたしたちに家はありませんでした。リヤカーを引いて世界を彷徨い続ける、ロードムービーみたいな話で、兄たちは子供ながらみんな紳士的で、どこまでもわたしに優しいのでした。

のち、小学生時代に、わたしの「きょうだいへの憧れ」にぴったりはまった作品が、川崎のぼる先生の『てんとう虫の歌』でした。
(アニメを見せてくれない家でしたが、漫画は読めたのです。)
わたしにもたくさんの兄弟姉妹がいたら、という妄想を仮託して、「一、ニ、三、四、五、六、七」の字が名前に入ったきょうだいを『てんとう虫』の真似をして(本家てんとう虫では月火水木金土日なんですが)作り、小説のようなものを書いたりしました。
見ようによっては「クリエイティブな子」みたいに見えるかもしれませんが、その実、おもちゃも買ってもらえないから創作の他に娯楽がない哀れな子供、ってだけだったのです。それに、ただパクってただけですし。

我が家の偏った標語としては、「兄弟は諸悪の根源」のほかに、

「シニカル(冷笑的)であれ。」
というのもありました。
小学校低学年のわたしに言うんですよ?
世界広しといえども、まだ幼い子供を捕まえて「冷笑的であれ。」って教えこむ親は、うちの父ぐらいではなかったかと思います。足リバンとかアイシスとかが幼い子たちに銃の撃ち方を教えるような、そういう雰囲気さえする「偏向」です。
明るく楽しく、みたいな言い草は、我が家では「愚劣」「紋切り型(ステレオタイプの意)」などとバッサリ切り捨てられるのでした。