【今日の 歴史の時間】
漁村市に、かつて競馬場があったのを知る人は少ない。
それも、ワシの家がそうであった。(ウッソー、マジ?)
ワシの家が競馬場であったというのはウソだが、ワシんちは競馬場の中にあった様子。
下の地図は、昭和55年6月25日に換地処分(区画整理が終了した日)を行った「漁村市駅南北土地区画整理事業・駅北工区」の現形図である。
その図面に、ワシが、かつてあった競馬場とおぼしき位置を緑色で着色したものである。
その位置はどのようにして推測したかというと、各土地の一筆ごと境界線で仕切ってあるので、その線をたどって行ったものである。
一部を拡大するとこうなっている。
たぶん明治か大正時代に、この地区は耕地整理という事業が行なわれていて、各筆(一枚ごとの土地)がきれいな長方形になっている。しかしようく探してみると、不自然なほど斜めにそれらの土地を分けている線が見られるのだ。
それらの線を緑色でつないでゆくと
現在の漁村市駅の北部にこのような、運動場を大きくしたような輪っかが出来上がるのである。
計測すると一周約1,000mほどである。
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ここで、この地区の古老松永さん(故人)が昭和60年に自費出版した「郷土の歩み」の一部をコピーしたものがあるので
お見せする。
このポンチ図は左が南で駅方面、右が北で瀬戸川である。
この「郷土の歩み」によれば、この地区の海岸沿い(弁天地区)にあった競馬場を昭和3,4年ごろにここに移設したようである。
毎年2月と6月に全国から競馬馬がやってきて、近郷近在の人々で華々しく競馬をしていたようである。
(ここで気づいたのだが、池文花火工場もあったのだなあ)
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そういえば農家だったワシの母も子供のころ、地方からやってきた馬を2,3頭、家で世話をしたようで、アイヌの馬主が泊まったりした思い出を語ったことがある。毛むくじゃらだったと言っていた。(差別用語に当たったとしたらワシの責任であります。お詫びします)
近隣の家は、どの農家もみな馬を関係者とともにお世話したようである。
そういうことがあったからか、わしの子どものころは、明治生まれの母親の親(ワシにとっての祖父)が馬を飼っていて、馬は身近な存在であった。
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繁栄していたであろう競馬場も、先の戦争の暗い影が落ちて来る頃の昭和16年、食料増産と国民総力戦の掛け声のもと歴史に幕を下ろすこととなった。
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区画整理が済んで、それまで田んぼばかりで道らしい道もなかった駅北地区も、今では住宅が立ち並び、立派なイナカの都会の町並みとなった。転居してきた世帯も増え、いまではその昔競馬場がここにあったということを知る人も、もうわずかであろう。
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ワシは電柱は大嫌いで、ガス・水道は出来ているのに、なんで地中化しないのか、特別な不満を抱いている分子であるが
電柱も歴史の証人として、少しは役に立っていることをお見せしよう。
これはワシの家近くの電柱である。電柱には表札代わりの番号表示がある。
中部電力の番号表示は”007ア426”みたいに味もそっけもないけれども、電電公社今ではNTTの電柱はこうなっている。
”馬場支5.左9”、番号はともかくとして”馬場支”という名称は歴史を感じさせるものである。
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でもそれだって、今に、ここには馬場という豪族が住んでいた証拠である、または「昔の地名ジャネ↑」という輩が出てこないとも限らんねえ。