こまちゃん

爺婆ふたり生活の日記

別れの悲しみを癒すもの

2011年04月05日 | 親の介護録
母が亡くなって一年がたった

母への思いはいつまでも続き、
いつの間にか悲しみが襲ってきて知らない間に涙が出ている日が多かった

父が亡くなった時は
悲しみは日に日に癒えて楽しかった日々を思い出しほのぼのとした気持ちになる日が多かった

違いは何だろうと思うに
亡くなった時に思いっきり嘆き悲しんだか、
火葬に立ち会いお骨になった事を目の前で認識したかということだろう

母の葬儀の日
父の具合が悪くなり私と父は母の葬儀に出席できなかった

その上
父の悲しみを思うと父を支える事に一生懸命で母の亡くなった悲しみを心の中に押し込んでいた気がする

母の時は最後のお別れもできず、火葬にも立ち会わなかった
父の時は支えなければならない人がいなかったので
自分の心のままに思いっきり悲しみ、誰はばかることなく大きな声で泣いた

今、私は両親の死を受け入れ穏やかな気持ちでお墓参りができる


東日本大震災では行方不明者がたくさんおられる
身元不明や引き取り手のない遺体の痛みが進むため仮埋葬をしているようです

埋葬に立ち会うどころか、亡くなったかどうかを確信するすべもなく
いつか、死亡した事を何となく認めなければならないなんて
いつ涙を流したらいいのか、いつ悲しんだらいいのか
気持ちの整理なんかつかないと思う

いつまでたっても悲しみは癒えないだろう

慰めようもない

叔母の死

2011年03月30日 | 親の介護録
叔母が亡くなったと連絡があった

昨年の4月5日に母が亡くなった時も、
今年の1月10日に父が亡くなった時も、
まだ、この間の2月26日の四九日の法要の時も
私の肩を抱いて励ましてくれた

とても元気そうで
「チョッと心臓が悪いから…」と言っておられたが
そんな風には見えなかった

一人暮らしをしておられてトイレで亡くなり、数日の間、誰も気づかなかったという

叔母さんの最期が苦しまなかったのなら少し気が休まるが
子供たち(私のいとこ達)はどんなに後悔の念に苛まれるかと思うと辛くなる

親孝行な子供たちだが仕事や家庭の事で少し目を離したすきの出来事らしい

子供の頃可愛がってもらった事や、
生前の両親を見舞いに来てくれて私をも気遣ってくれた事が思い出され
「ふみちゃん」と私の名を呼ぶ叔母の声がよみがえる

訃報を聞いた時は驚き、悲しさがジワジワと襲いってくる

悲しみというのは色々あるんだと思った
両親の死の時とは明らかに違う悲しみを感じる

叔母さん
天国でご主人や私の両親と早く会えると良いね
ご冥福を祈ります

ありがとう

2011年01月15日 | 親の介護録
父の死は母の時ほど悲しさは襲ってこなかった

通夜も告別式も淡々と過ぎて行った

死んでしまった事を知った時は驚きと悲しみと後悔はあったが
次第に体の力が抜けていくのが感じられ安ど感のような気持ちが湧いてくるのを
後ろめたく感じたほどだ

ところが
いよいよ火葬ということでお棺にお花を入れようと
それまで、無意識に見なかった父の顔をまっすぐ見ると
赤みのない白い顔がニコッともしない事を改めて思い
悲しみが一気にあふれ出し涙と嗚咽が止まらなくなってしまった

「お父ちゃん、ありがとう」と泣きながら叫んでいた

母には言えなかった
父には絶対言おうと思っていた
ありがとう

私をここの子供にしてくれてありがとう
可愛がってくれてありがとう

生前、この言葉を言いたいとずーっと思っていたが口に出して言うと
最期になってしまうような気がしてなかなか言えなかった

無意識のうちに叫んでしまったのは
私の心の中で、ずーっと反芻していた言葉がぴゅーっと勢いよく飛び出したようだ

やっと言えた
お父ちゃん、お母ちゃん、ありがとう

    
今日の午後、娘家族がやって来た
娘は、来月、二人目を出産するのだが、里帰りの時使う部屋を整えていった

父はもうすぐ曾孫が増える事を知っていた
私も、父の世話と娘の出産の世話を両立させるつもりで、がんばろうと思っていた

父が
「自分はもう良いから娘と孫の世話をしてやれ」と言っているような気がした
生まれる子は男の子と言われている

納棺

2011年01月14日 | 親の介護録
納棺の時
棺に軍服の帽子を被せたと昨日書いたが、他に母の着物も入れた

母が亡くなった時、入れてあげたいと探したが見つからず気になっていた。
その後、出てきたので父に届けてとお棺に広げて入れた

その着物とは
父が趣味の墨絵と文字ですそ模様を書いたもので
母は趣味の日本舞踊の発表会で披露した

父が筆を持てなくなったり
母が中腰になれなくなり日本舞踊をやめた後でも
時々広げて両親は楽しそうに話していた

今朝、母の大きな声に目が覚めた
亡くなってから9カ月になるが一度も夢枕に出てきてくれなかった

声は「行くよ~」と弾んだ声で一度だけだった

行くよと言う意味は分からないが着物が届いたのかなと思った
でも、着物より父が自分の元に来た事が嬉しかったのかな

父の永遠のゼロ

2011年01月13日 | 親の介護録
父の告別式の後、遠方から来てくれた長男が
「永遠のゼロ」を読んで感動し祖父ちゃんに戦争の話を聞こうと思っていたと言った

私も今読んでいるが
生前、父に零戦の事を聞いてみたが良く知らなかった

戦争で朝鮮や中国に行き大変な目にあった話は良く聞き
数年前に父の体験を新聞に投稿して載せてもらったこともあった

父は北朝鮮の良くないニュースを耳にして
「戦争をやっている時も、北朝鮮の人達にご飯をもらった。良い人達やった。何でこんな風になったんやろ」
と言っていた
私は戦争をやっている敵と心が通じ合う、助け合うと言う事がどうにも理解できない

父はここ1カ月ほどの間、珍しく戦争の話をよくした

実家に
剣をさし背筋を伸ばした馬上の父の写真がある
若くてきれいな顔をしている

また、いかにも勇敢な兵隊に見える
が、
「目の前で何人もの仲間が死んでいくけど自分は死なないように気を付けていた」と言っていた
そうして
「帰国してからは死んだ仲間の家族を探しその様子を話に行った」とも話していた

その写真の横に軍服の帽子が置いてあった
納棺の時、その少し破れていた帽子を被せてあげた

悪夢のような青春でも写真の父は若さに輝いて見える

お棺の父はその頃と同じ顔に見えた

父の死

2011年01月12日 | 親の介護録
今月10日に父が亡くなった

今週の月曜日の早朝、父と同居している弟から電話があった
「父さん、もう、だめや」
意味が分からず、聞きなおすと、すでに冷たいと言う

すぐ、往診に来ていただいている主治医に連絡して半信半疑で車を動かした

頭の中が「何が起きたの」と真っ白の状態で実家へ行った
医者はすぐ来てくれたようで弟と話していた

「2時間ほど前に亡くなったようです」と言われ
目の前の父はいつも寝ている時と同じ、横向きの状態だったが
顔は下になっている部分が変色して明らかに亡くなってしまったことが分かった

弟によると
日曜日の朝はパンとサラダ、卵を食べ
昼は寿司を3/4人前食べ
夜もステーキ一人前を完食したらしい

ただ、今日は尿の量が少ないなと気にはなったようだ

夜、背中をさすって欲しいと言われさすってから寝に行ったが
この時も少し変かなと思ったと言う

朝、朝食を食べさせようと部屋に行くと布団から足を出していたので
「おしっこか?」と言いながら足を触ったら冷たいので異常に気づいたと言う

おしっこをしようして起き上がろうとした時、心不全になったようだ

頻尿で何度も起きるので
「夜だけおむつを使ったら」と言ったが嫌がった

父も母と同様に最期まで
自分で尿器を使い排尿、トイレまで這うように行って排便した
そうして
ベッドサイドだが座って自力で食事をした

この日の朝は寒かった

春になったら出かけようと言ったら喜んでいた
意識もしっかりしていて、まだ生きる意欲もあったのに
もっと寒さ対策に気を付けていたらこんな事にならなかったかもと後悔もする

この日からずっと寒さが続いている

足のむくみが改善

2010年12月14日 | 親の介護録
自己流でも父の足のマッサージを続けていたら
むくみが改善されている

足を足温器で温めた後
クリームを塗って
足の指や甲、裏を私の手のぬくもりで温めるように
握ったり、さすったりしてから
膝の方までさすりあげていく

こんなやり方で良いのかなと思っていたが
日に日に改善されていくのを見ると
何でもっと早くやってやらなかったのかと後悔する

気持ち良さそうにしているのを見ると
母にもやってやれば良かったな


足のむくみ

2010年12月09日 | 親の介護録
父の足のむくみが気になり足温器を買った

フジカ スマーティレッグホットと言う製品で
水もお湯も使わない遠赤外線の輻射熱で温める足用のこたつのような感じです

食事の後、ベッドサイドに座ってもらい
低温やけどにならないように弱めの温度に設定した足温器に
これも最初は短めの時間10分位で温めるのをやめた

マッサージのやり方が不安だったが
足裏や足の指、足の甲をさすってふくらはぎにに向かい下から上にさすった
これも、短めの時間で10分位にした

「終わったよ」と言おうとしたら眠っていた

毎日の日課にしようと思う




血尿が出た!

2010年11月29日 | 親の介護録
「どう?」と父に尋ねると
「うん…」とテレビを見たままこちらを向かないで返事をした

顔色も悪くないしベッドサイドに腰かけてお菓子を食べている
(良かった)とひと安心。

土、日曜日は弟に頼んで実家へ来なかったが
土曜日の昼過ぎに父から携帯に電話してきた

「なんか、体が…」と半泣きでしどろもどろの様子に慌てた

離れた場所にいたのですぐには帰れないので弟に連絡して様子を見てもらった

弟からの連絡では
血尿が出たと言うが尿器の尿はきれいだし、大丈夫だから月曜日に来ればいいよと言った

膀胱炎の血尿がしばらく出ていないから、数日前からバイアスピリンを再度服用することにした途端の事だ

排便の為にトイレでいきんだ時に血尿が出たのかも知れない
でも、もしかしたら、夢を見たのかも知れない

ヘルパーさんも弟も血尿は見ていないが父は出たと言う

今日も特に尿に異変はないが
用心にバイアスピリンはまた飲ませないようにしようと薬入れから除いた


自宅の電話にも携帯にも何度も父からの着信履歴があった
血尿でパニックになり
私に何度も必死に電話をしてくる父に少し戸惑っている

辛くても膀胱癌の手術や治療をして
少しでも延命するほうが父の本当の望みかもと思ったりする

癌であることを知らせてない父に望みを聞くのもできない

癌の手術のために入院した時、医者から説明を聞き、
やはり、手術はやめようと決めて自宅で過ごしてもらっているが
これで良かったのかと、また、迷い出した

喪中はがき

2010年11月01日 | 親の介護録
喪中はがきを用意し昨年の名簿から宛名を印刷して父に持って行った

昨年は、私が年賀状を用意しパソコンに名簿が残してある
だが、その名簿に抜けていた人が数名いたようで、父が自筆で書いて出したと聞いていた

その時、名簿の整理をしておけばよかったのだが…


喪中はがきを見て

「もう、半年経つんやな~」としんみり。


「抜けている人、分かる?」と聞くと
「二階に住所録があるから持ってきてくれ」

探しても住所録らしきものはなく、数年前の年賀状の束が見つかった

それで、父と名簿の抜けをチェックした

「この人の家で見合いしたんや」とか年賀状から母との思い出を話してくれた
始めて聞く話もあった


年賀状から抜けている人の住所を確認したので、今度はしっかり整理しておこうと思う

味覚の違い

2010年10月29日 | 親の介護録
実家の親の介護は家族のほかにヘルパーさんにも助けてもらっている
介護に携わるのが複数なのでノートに色んな事を書くことになっている

今朝、「昨日のおかずとみそ汁の味が薄いと言っている」と書いてあった
弟の字です。父がそう言ったのでしょう

夕食のおかずは私が用意し昼に食べたものを少しずつ取り分けておいたもので
私と一緒に食べている時は何も言わずにおいしそうに食べていた

ヘルパーさんのつくってくれたみそ汁も
残った時は私も食べているが「おいしい」と思う

確かに、もともと塩っ辛い味付けを好む
母がいる頃も、おかずを焚いて持って行くと
「醤油かけるのか?」と冗談とも本気とも思える事を言う

「塩分や糖分を控えた方が良いで」と言っても
その時は「そうか」と言って納得してくれるが
次の日、テーブルに塩の瓶や甘い菓子が置いてある

味覚が違うから好きにさせてやりたいと思っているが
あまりに違うと味付けに困ってしまう

血液検査の結果

2010年10月26日 | 親の介護録
検査結果

血清総蛋白 5.9→6.1 (6.5~8.2) 蛋白不足だが改善されている
HDLコレステロール(善玉コレステロール)  35→42 (40~75) 改善されている
尿素窒素 24→28(8~20) 腎臓機能低下
血糖 175→150(70~109) 糖尿病 改善されている
赤血球 400→394(420~570) 貧血気味


最近、元気になってきて食欲もあり安心していたが
血液検査の結果にも改善されている項目があり
父の元気は本当だと嬉しくなる


今日は豚肉のロース100gを照り焼きにして
たっぷりの生野菜の上に乗せて出した
「多かったら残していいよ」
「これくらい食べるわ」と見事に完食した

心配なのは
ゆっくりとしか歩かないのに
ベッドからトイレの3~4mの間に息切れがするようだ
仕方がないのかな

大垣せんべい

2010年10月22日 | 親の介護録
買い物をしてから実家の父の所へ行く日と
実家でないものを確認してから買い物に出る日がある

今日は後者の日

「買い物に行くけど、何か欲しいものある?」
父は少し考えて
「田中屋の大垣せんべいが食べたい」
と言った

欲しいものと聞いた時、いつも食べ物になる
それも、お菓子の時が多い

店で田中屋の大垣せんべいを前に
(こんな堅いもの食べられるかな)と思ったが買ってきた

テレビで「世界一硬いせんべい」と紹介されたりするほど堅い

久しぶりなので私も父と食べてみた

少ししゃぶるように時間をかけて食べると
味噌のかおりとほんのりした甘さが口に広がった

父もおいしそうに食べていた