5月17日、茨城県稲敷のご実家へ参上し、ご焼香させていただきました。お母様は、私たちが訪問してから帰るまで、泣き通しです。山小屋風に天井高く建てられた部屋があり、そこでお母様は、昌之さんへの想いを吐露されました。
「子供の時から風邪を引く程度で、健康に育ちました。どうして血管肉腫のような珍しい病気に罹って、亡くなるようなことになったのでしょう?」。
「私はこの家で、昌之と暮らしたかったのです。でもそれを言うと、昌之の都会での暮らしを妨げてしまうので、ずっと聞かずに我慢していました」。
「昌之は、東京・千葉での生活を、何も話しませんでした。だから私は何もわからないので、あの子がどんな暮らしをしていたか教えてください」。
私も無常なこの世の理を、ご遺族と共に悲しむしか、術ありません。せめてもの救いは、余命いくばくもなく令和2年を迎えられないと宣告されていたにもかかわらず、4か月半お母様と暮らせたことです。そして最期は、苦しむことなく穏やかだったことです。
私は昌之さんの楽心館での生活の様子を、ご高齢のお母様に分かりやすい文章にして、お届けしようとしています。できれば、他の皆様方にも、追悼文をお寄せいただきたく思います。ご多忙のところを恐縮ですが、何卒よろしくお願い申し上げます。(メールでのご提出でかまいません。)
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多くの方々のご協力で、追悼文集を作成しました。7月7日に完成し、お母様へお届けいたしました。新盆に間に合い、良かったです。ご協力いただいた皆様に、感謝申し上げます。
写真は千葉市武道館 子供審査会で、審査員をする故櫛田昌之指導員です。