PHP『心に響く・名経営者の言葉』
第5章 挑戦する言葉・No.004
「とにかくやってみろ。やってみてから文句を言え。
やりもしないで本から読んだり、人から聞いて、
そうなりますと、分かったような事を言うな」
小林大祐 元富士通社長・会長(1912~94)
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小林大祐は兵庫県多可郡加美町(現在の多可町)で生まれた。
昭和10(1935)年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業すると、富士電機製造
(現在の富士電機ホールデイングス)の第一期生として入社。
だが、同年6月に富士通信機製造が設立されたのに伴い転籍する。
太平洋戦争が始まると「帝都防衛システム」の開発に携わった。
レーダーによる敵機の捕捉には成功したものの、高射砲部隊では手動計算機で
弾道を計算していたため、どんなに正確なデータを送っても攻撃が遅れ、敵機を撃ち
落とすことはできなかった。
このとき小林に高速計算機(コンピュータ) への興味が芽生えたという。
終戦後、小林の提案を受けて、富士通はコンピュータの開発を会社の方針として決めた。
当時は朝鮮戦争の特需に沸いていたため、昭和二七年に東京証券取引所の株式精算
システムを製造。
残念ながら採用はされなかったものの、二年後にこの計算機をベースにした我が国初の
リレー式自動計算機FACOM100が完成した。
そして昭和34年には、日本初の電子計算機であるFACOM212の開発に成功。
同機は昭和38年にフィリピンに輸出され、国産コンピューータ初の輸出機となった。
さらにその翌年、富士通はニューヨークの世界博覧会にFACOM231を出品。
IBMの独占市場だったコンピュータマーケットに大きな一石を投じた。
当時、電子部長だった小林は、ここで重大な決断をすることになった。
FACOMでもIBMのソフトウェアを使えるようにすることである。
独自性が失われるという反対の声は大きかったが、小林は「とにかくやってみる」ことにした。
この決断によって富士通のコンピュータは販売台数を急激に増やし、電算機部門の売上高で
国内トップになった。
知識が豊富な人ほど、実際に手を下さずに「それは不可能」「無謀な挑戦」と判断してしまう
ことが多い。だが、実際にやってみなければ結果はわからない。
今までは不可能だったこともいつかは可能になるが、手をこまねいていれば永遠に不可能の
ままだろう。
「とにかくやってみる」ことが成功をつかむための最低条件だ。
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一期一会(いちごいちえ)
一生で一度かもしれない出会いを大切に。
この出会いは二度とないと思うと、その出会いを大切にできる。
人との出会いに限らず旅先の風景、自然との出会いも「一期一会」。
:気持ちが楽になる禅の言葉より
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