楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

心に響く!!名経営者の言葉No.021

2018-05-28 | 先人の知恵に学ぶ

PHP『心に響く・名経営者の言葉』
       第1章 ビジネスチャンスのつかみ方・No.021
「努力だけで過去の事業が成功してきたか、
  というとそうでもない。やはりこれに
   運がプラスされている。しかし、努力の
    ないところには絶対に幸運は来ない」
      鮎川義介・日産コンツェルンの創始者(18801967

 
  鮎川義介は、戦前に日本鉱業、日立製作所、日本水産、日産自動車
などの有力会社を傘下に持つ日産コンツェルンを築きあげた財界の大物である。
 しかし、生まれつきの大物など、どこにも存在しない。
鮎川も冒頭の言葉どおり、努力によって幸運をつかみ、そして成功をものにし
たのである。
 山口県で生まれた鮎川は、明治6(1903)年に東京帝国大学を卒業すると
芝浦製作所(現在の東芝)へ就職し、鋳物職人となっている。
 彼は、事業を興すためには現場を知っておいたほうがよいと考え、帝大卒と
いう学歴を隠してまで職人の途を選んだのだ。
 当時、帝大卒といえばエリート中のエリートで、どのような仕事にでも自由
に就くことができた時代である。
 入社した会社でいきなり幹部になることも珍しくない。
だが、彼はみずからの言葉どおり、幸運をつかむためにあえて努力をする途を
選んだのである。
 2年間鋳物職人としての技術を磨いた後、鮎川は単身渡米。
そして、最新の鋳物技術を持ち帰ると、外務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを
歴任した大物政治家・井上馨を「鋳物工業には大きな将来性がある」と言って
説得し、支援を受けることに成功する。
 こうして北九州に戸畑鋳物を設立した。
鮎川の予想どおり、戸畑鋳物が製作した鋳物は水道から鉄道までありとあらゆ
る場面で使われるようになり、彼は莫大な富を手にする。
 昭和3(1928)年、義弟の久原房之助が持て余していた久原鉱業再建を引
き受けるべく社長に就任。
 社名を日本産業と変更し、日産コンツェルンを確立したのであった。
近道と回り道があるとき、私たちはどうしても近道を選びがちだ。
 しかし、ビジネスに関していえば、近道が常に正しい道とは限らない。
鮎川が選んだ職人の途は、そのことをよく表しているといえるだろう。

 

 


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