楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

心に響く!!名経営者の言葉No.082

2015-06-22 | 先人の知恵に学ぶ

  PHP『心に響く・名経営者の言葉』
        第5章 挑戦する言葉・No.005
「トップに迷いがあってはならない」
             丸田芳郎  元花王社長・会長(1914~2006)
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 丸田芳郎は長野市川中島町で生まれた。
父は長野市内の小学校で校長を務めており、芳郎は長男だった。
成績優秀で、旧制長野中学から桐生高等工業学校(現在の群馬大学工学部) へ
進学したが、兄弟が多く大学への進学は断念。
 同校を卒業すると、花王石鹸長瀬商会の系列会社・大日本油脂へ入社。
そこで京都帝国大学への国内留学を許され、二年間、同大学で化学の研究を続け、
植物油から鉱物油を合成する実験に成功した。
 そして太平洋戦争勃発の前夜になり、アメリカが航空機用潤滑油の対日輸出を
禁止したことから、丸田の研究が脚光を浴びることになる。
 昭和15(1940)年、丸田は航空機用潤滑油の研究で陸軍技術有功賞を受賞。
実際の生産は工場の完成が遅れて終戦間際となり、実戦に使われることはなかった。
 しかし、丸田が成功した潤滑油の合成技術は、20世紀の工業化学史上に残る偉大
な発明といわれており、昭和23年に京都大学から工学博士の学位を受けたほどだった。
 終戦後の昭和21年に、なんと32歳の若さで花王石鹸長瀬商会の常務に抜擢。
同年、鉄興社との合弁会社・日本有機の専務にも就任した。
 そして、昭和24年に社名が花王石鹸に改称され、昭和46年に伊藤英三社長の急逝
を受けて社長に就任した。
 丸田は強引すぎるほどの指導力を見せた。相手が上司でも、正しいと思えば堂々と
進言し、相手が納得するまで説得を続けた。
社長の伊藤ともしばしば衝突し、社長が先に折れることも珍しくなかったという。
 だが突然、社長になったときには、さすがの丸田も「社長と副社長では責任の重さが
まったく違い、どうすればいいかわからなかった」という。
 しかし、丸田が迷ったのは束の間だった。彼は経営の多角化・省力化を積極的に推進
し、同社をトイレタリー(化粧用具)で国内第一位、化粧品でも国内第二位の大化学メー
カーヘと育て上げた。丸田がいつまでも悩んでいたら、花王は現在のような大企業に育っ
ていなかったかもしれない。
 上に立つ者が「あそこを目指す!!」
      という具体的な目標を指し示さなければ、
         企業も船も行き場を失ってしまうのだ。 
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我達人(がほうじん)
自分だけの殼に閉じこもっていても始まらない。

人は人と出逢うことからすべてが始まる。
人との出逢いは何かを生み出し、人を大きく成長させる
                          :気持ちが楽になる禅の言葉より 



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