この人はいったい、どこで何を間違えたのだろう?
他人(ひと)の人生を見ていて、思うときがある。
人生は素晴らしい!
基本的に、私はそう思っている。
けれど、そうとばかりは言えない。
人生は怖ろしくもある。
能天気で夢見がちなわりに、私は人生の怖さを心に留めるビビり屋チキンでもある。
コインは表と裏があって一つのコイン。
何事も表裏一体、「素晴らしき哉、人生」は「怖ろしき哉、人生」にどこからかとって代わることもあれば、その逆もある。
何が怖ろしいかって、正直、失敗は怖ろしい。
とくに、他人の失敗には身が竦(すく)む。
むしろ自分のことなら、これまで大きな失敗をした例(ためし)がないと思っているせいか(他人から見たらどうだか分からないが)、「多少の失敗は何とかなる」気がしている。
そもそも、誰だって失敗すると思うことはしないだろう。
不安が多少はあったとしても、心のどこかで「何とかなるだろう」と思うからするわけで、「できない」と思っていることはしない。できないはず。
ところが、本人はできない気がしているのに、周りに乗せられたり、自分のプライドや体裁のために迂闊にもできる気になってしまうのは、見ていて相当に怖いものがある。
つまり、「何とかなるだろう」の可能性にかけてすることが、何とかならなくなった状況を他人の人生に見たときが私は怖いのだ。
「失敗は成功の元」とはよく言われる。そのとおり。
「人は失敗から学ぶ」ともよく言われる。そのとおり。
そんな失敗を肯定する言葉は数あれど、実際に失敗した人の話を耳にすると、私は脅しをかけられた気がしてしまう。
ここ数年の間に、「人生は怖い」と思った出来事がある。
何度かお会いしたことのある社長さんが、資金繰りに詰まって会社を倒産させた挙句に自己破産した話が伝わってきたときがそれ。
今どきのご時勢に珍しい話ではないけれど、実際に知ってる人の倒産や自己破産は突如とした現実感を伴う。
他にも、立派に専門分野のキャリアを持って仕事をしてきたコンサルさんやライターさんが自己破産しただの聞いてしまうと、肝っ玉がキュッと縮まって血の気が引きそうになる。
で、考えるのだ。
その人はいったい、どこで何を間違えたのだろう?
「怖ろしき哉、人生」の切り替えポイントはどの時点にあったのだろう……と。
でも案外、自分が未経験だからゆえの怖さであって、経験してしまえば度胸が付くというか、そんな感じなのだろうか……とも思ったりして、こんなふうに思うことで自分が経験する羽目になりはしないかと思うと、またまた肝っ玉がきゅっとなるのを感じて、身がすくむ感覚の妄想溺れから正気を取り戻し、「しっかりしよう」と自分に言ってやる。
《09》📔📒📓