昭和の終わり頃、熊本県から依頼受け熊本の農業、米問題のアドバイザーをさせていただいていた時期がありました。
紹介者はすごい家柄で。
地域によって習慣違いますが、九州は福岡の人で、厄払いの会というものを開催され小生も招待されていました。
その時に友人として挨拶されたのが後に熊本県知事、総理大臣された細川護熙さんでした。
K家とのお付き合いは650年前にさかのぼると。
家柄が・・・
住む世界が一般人とはまったく違う・・・(笑)
で、熊本県知事時代に熊本のお米の問題があり。
当時熊本では自主流通米ではなく、ほとんど政府米を作っていて。
食味より、収量、強い稲を作るのが主流で。
県外に出荷されるわけですが、なんと沖縄から美味しくない、まずすぎると返品騒ぎになったことがあり。
農業団体、農業者の意識をどう変えればよいか。
なにかアイデアはないか、方法はないか。
熊本空港に着くと、県が用意した黒塗りの乗用車が迎えに来ます。🎶
そのミッションを終えた年、年末も押し迫った時でした。
小生に電話があり。
「細川ですが・・・」
(びっくり‼️)
「例の件はどうなったでしょうか?」
「それでしたら、レポートまとめ担当課に出してあります」
「そうでしたか、わかりました」
そんなことがあり。
その後すぐに県と経済連の企画担当課長がすっ飛んで来ました。
たしか、御用納めの12月28日だったと思います。
わたしのアイデアというのは、熊本の米はまずいので、それなら食味を追求するのではなく。
中国農業試験場で開発していた「インディカ米と日本米を掛け合わせた米」を栽培し、加工米飯にして消費地に売り込むというものでした。
冷凍米飯です。
さっそくプロジェクトが出来。
事業の具体化が進んで行きました。新会社設立。
平成元年のことです。
資本金4億円。県経済連が事業主体で61%出資、いちかわアクト並びに大阪ガスが17%(17%でも6800万)、県が5%という出資比率です。
熊本空港から数分の立地に広大な土地がありそこに工場を建設しました。
平成3年8月製造開始。
大阪ガスは子会社に「キンレイ」という冷凍食品の会社があり技術があります。
わたしの方はレストランチェーンが得意先なのでそこに売り込む。
今から振り返ると平成の初め頃は絶頂の時期でいろんなことやっていました。
小生はまだ40前の時です。
平成も5年になり・・・
その年は戦後最悪の作況指数・・・
梅雨明け宣言出来ない年でありました。
夏でもセーターを着ている地域もありました。
そうです、冷夏で大凶作。
悪いことは重なる
良いことは重ならない
たまたま、たまたまですが、政府米在庫がほとんど無いと言う状態でした。
平成4年25万トン、平成5年23万トン。
当時の需要量1000万トンはありました。
作況指数はたしか74だったと思います。
データによれば平成5年産は783万トンだから200万トン以上不足するという計算になる。
翌年収穫出来るまで食いつないでいかねばなりません。
机上の計算では端境期にコメが無くなる。
大凶作がほぼ確定して、政府としてコメの緊急輸入を画策します。
小麦と違い、米というのは生産量に対して貿易量というのは少ない作物。
しかも、日本人が食べている「短粒種」いわゆるジャポニカ米の貿易などほぼありません。
コメ輸出はタイ国が多い。
そして、その後評判の悪い(日本人にとっては)タイ米が大量に輸入されたのです。
当時、形骸化していたとはいえ「食管法」がありました。
平成6年春から米卸、米小売に対して国産米7、輸入米3という割り当てがされ。
インディカ米食べたくない人がほとんどで。
国産米を買うために人々が店頭に殺到。
それが「米パニック」です。
平成の米騒動
その当時、わたしが社長していた会社は年間3万トンくらい精米していました。
平均すれば月2500トン、25日稼働なら1日100トンです。
大型トラック10台分。
業界人だと何俵の方がピンと来るかな。
1,666俵/日
その原料米が3割輸入米
国産米は7割しかない
ところが顧客である外食企業はどの会社も単価上がってもよいので国産米を求める。
パックご飯の子会社は赤字続き。
体力弱っているところにパニックが。
当時、直営の小売販売店「きゅうさん」を24店舗経営していました。
パニックの時、店の前には長蛇の列。
倍で販売しても必要量の何倍も買いたい。
そこで売ればものすごい収益になるが。
それはしなかった。できなかった・・・
レストランチェーンへの供給責任を果たそう。
倍でも売れる直営店を閉めて業務用優先で出したのです。
会社が弱っている時にスーっと引いて行く会社。
良い時はどんどん買って欲しいと日参していた米卸は売らなくなる。
小口に高く売る方が儲かるからです。
おかしなもので、足りなくなると前年実績というものが基準になってくる。
伸びてる会社ほど大変なのです。
この時ほどくやしい思いをしたことはありません。
会社、事業の続行は困難となっていました。
会社というのは資金、現金が足りなくなれば続行不能になります。
再建をどうすればよいか。
親しくさせていただいていた米卸のオーナー社長が支援を約束してくれました。
それを当時最大の得意先である社長のところに報告に行きました。
その帰りのクルマに会社の総務部長から電話が。
「社長、ただいま労働組合が結成されました。すぐに戻ってください。」
それからの半年は生きた心地がしなかったねぇ。
銀行と商社のトップクラスで話しが出来ていて。
商社に事業・資産を売却して銀行は資金を回収する。
銀行、商社、オーナー家。
倒産させずにソフトランディングさせる。
大岡越前ではありませんが「三方一両損」の精神で行こうと。
そんなうまいこといかない(笑)
メインバンクがすべての銀行に話しをつける。
事業売却時にメインバンク以外の貸出金はすべて返済する。
そうそう、メインバンクがすべての取引先銀行に話しをつける、まとめるとしたのですが、
1行だけ聞かない銀行がありました。
「日本興行銀行」です。
興銀の行員は都市銀行のこと自分たちより下と見下していました。
その、興銀も今はありません・・・
時効だから話せます、書けますが、いろんなことを経験しました。
平成の初めの頃、小生にとっては激動の時代でした。
続く
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