クルマが大好きな少年でありました。
あと一週間で18歳になるという時に無免許運転で交通事故起こし入院。
シートベルトもしていない。
フロントガラスを頭突きで破るのだから衝撃のすごさが後でわかる。
救急車で運ばれる時に三途の川を渡るような夢を見ていた。
綺麗な花がいっぱい咲いている。
めちゃめちゃ体痛めているのに不思議になんとも痛くなかったことを覚えている。
病院に入ってから、麻酔なしでまぶたを7針縫う時は痛かった。
一週間ほど入院。若いので回復が早いのです。
退院してすぐに運転免許を取りに試験場へ。
自動車学校など行かずに直接試験場に行くのだ。
考えてみればおかしなことで、いきなり運転できることは変なのに(???)
一度目は「お前は運転うますぎるので落とす」と言われた。
おかしい試験官でありました。
二度目で合格。
1971年2月に普通自動車の運転免許証をもらう。
もらってすぐ無免許運転で免許停止処分に(涙)
翌月の3月にJAF入会。
なぜ入会するかといえば、モータースポーツに参加したいからだ。
すぐにB級ライセンスを取得。
当時盛んに行われていたジムカーナに参加するためだ。
近いので大磯ロングビーチの駐車場で開催された大会によく行ったものだ。
たまに、メーカーのワークスドライバーも参加することがある。
ニッサンのワークスドライバーだった星野一義さんなども参加されていた。
神業ではないかとあこがれたものだ。
後に星野さんは日本一早い男と呼ばれた。
なんで18歳の少年がそんなクルマを持っているのだろう?
兄のスカイラインGTを交通事故で廃車同然に壊してしまった。
そのクルマを売り飛ばし、中古のレースカーを買ったのであります。
ひどい悪ガキでありました。
ジムカーナで腕を磨くと、次はレース場を走りたくなる。
トラックの荷台にレースカーを載せ富士スピードウェイに走りに行ったものだ。
A級ライセンスを取得し、最初のレースは富士フレッシュマンレースに参加。
1972年の初め頃だったと思う。
決勝に進めるのは35台。
なんとそこに55台ものエントリーがあり予選を行う。
(当時は盛んだったのです)
タイムは忘れたが予選4番手だった。
ポールポジションのクルマはなぜかスタートグリッドにいない。
当時の富士スピードウェイ左回りショートコース。
4番手は二列目のインコースということになります。
第一コーナーアクセル全開のまま突入するのだ。
恐怖心との戦い。
ブレーキポイントをライバルより遅らせることができるかどうか。
その一瞬の戦い。
パワーのない1300ccクラスなので加速より減速の技術がが勝敗を決める。
第一コーナーを二番手で通過。
最終コーナーをインから抜いて一番にと思った瞬間激しくスピンしコース中央に反対向きになってストップ。
一周目なのですべてのクルマに抜かれビリから再スタート。
終わってみれば12位でありました。
JAF入会40年記念シールが届いて少年時代が蘇ったという話しでした。
昔話しにお付き合いありがとうございました。
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