市川稔の米(マイ)情報

わたしの米流通の歴史①

人生には転換点というものがあります

会社にも転換点というものがあります

原点は人であり、社長の想いです

思いは実現する

思わないことは実現しない

小生は大学生の時に家業の人手不足もあり手伝うようになりそのままビジネスの世界へ

米を扱う事業の方で働く

1973年(昭和48年)のことです

その当時は食糧管理法(食管法)というものがあり

米は国が管理していました

が、実際はすでに破綻していました

代表的なのは米穀通帳というもので本来は特定の米屋から米は買うものでした

余談ながら、
昭和49年、若くして結婚した小生は新しい世帯を持ちました
婚姻届を出した時に役所の人に「米穀通帳」くださいと申し出ました
そんなこと言われたことない役人は驚いて
わたしは、米穀通帳が無いとお米が買えないはずだと言いました(^^)/
かなり探して探して、色も褪せた米穀通帳を持ってきました
そのくらい形骸化していました
あれを保存しておけばよかった・・・




食管法というのは大東亜戦争が始まった翌年の昭和17年に出来た法律です

配給制度です

昭和30年代まで日本はずっと米が足りない歴史でした

国が米を買い上げ、国が損して卸売会社に売り渡す

生産者は売り先の心配はない、品質向上の努力より収量増やす努力をする

自由主義国でありながら、社会主義のようなことをやっていた

昭和40年代に入り豊作続き一気に米余りになった

食管赤字が3兆円に達することもあった

販売面でも矛盾が表面化していました

小売りで米屋の数が増えない

米屋しか米販売していない

人口増えている時代

特に、東京や神奈川では人口急増する地域があるのに米屋は増えない

米屋は注文の電話を待つだけという殿様商売になっていた

制度の上にあぐらをかいていればよかったわけです

わたしの父は当時多かった個人商店にお米を卸売りすることを思いつき

民間の卸売市場に店を出したり

法整備と現実の矛盾を指摘して

無登録でお米の販売を始め大成功していた

県とか都から睨まれていた

消費者、販売店からはとても喜ばれていました

わたしが会社に入った頃から毎年3割から5割売上増えて行った


昭和49年、ある転換期が訪れます


続く



ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事