8月16日(金)第897回 活動報告
台風7号が遠く東日本を窺っているので、京都でも北東の風が少しあった。昨日までのたまらない温度からは免れたのだが、数字にするとさて34度~。14名が出席した。
お盆の最終日で地獄の釜の蓋もまだ開いたままでしょうからと、山の仕事はゆっくりだった。写真は玉城山のシダを処理するので、刈り払い機を整備する玉城山班。玉城山のシダさんは健康優良児で、ナイロン刃で立ち向かうのはなかなかの仕事でした。
でも今日は恒例のごちそう日でしたので、
なかの・まりこチームの特製カレーにBC農園産ブドウのデザート。(橋本農園)
孟夏も菜園の手入れ
この季節、ぐったりしているのも”天然”ですよ
さて、本日令和6年盂蘭盆会。想いを致すところもあり”ま”関係者の面影を急ぎ集めました。
(香川山に戻っておられた諸霊も今夜の大文字に送られてお帰りでしょう。秋にはマツタケ連れて来てね)
北海道のマツ
先週函館を訪れた。五稜郭奉行所跡に見事なマツが育っているのに驚かされた。道南の気象には青森と連続しているところがあり、それほど寒帯ではないとされている。それでも津軽海峡を挟んでマツの分布は分断されていて、山の植生を見てもマツは自然には分布していないことがわかる。ここではマツは自然条件には反してヒトが植えるものなのだ。奉行所の役人は江戸から来てマツが恋しく、寒いけれども育ってくれよと植えたのだろう。ところが今や本州のマツはいろいろな条件の下、松枯れの蔓延で気息奄々の状態なのに対し、温暖化で適温になっているのだろう道南のマツはこんなに元気にということのようだ。
いまやもうこんなに立派なマツはー浮世絵のマツのような、近くにはどこに残っているのだろうか。以前加茂街道堤防西側には(とくに出雲路橋~北大路・今宮通り)このようなりっぱな松並木がならんでいました。覚えておられる方もあるでしょう(昭和40年以前だったでしょうか)。
知人が編集する同人誌にまつたけ山復活させ隊の紹介を依頼された。試論を紹介します
ARS LONGA VITA BREVIS
まつたけ山復活させ隊の取り組み
今年もやがてその季節がやってくるのだが、秋の味覚の代表とも言われるマツタケがなかなか口に入らなくなり、そのうちにマツタケ?それ何だろねという世代が出てきそうなこの頃である。柴や下生えを、燃料や飼料・肥料に使う生活が過去のものになり、近郊の山林にヒトの手が入らなくなり、放置された山林=里山の荒廃が問題となって久しい。マツタケの産出が激減して幻の食材となりつつあるのは、この荒廃が原因の一つとなっている。
京都岩倉の新興住宅地と山地のちょうど境になる場所で、まつたけ山復活させ隊という名前の団体が20年近く”マツタケの発生するようなアカマツ林の里山”を取り戻すことをテーマに活動を続けてきた。
昔から、マツタケは松林を掃除するとよく発生するようになると言われている。マツと共生するマツタケ菌は、栄養分に乏しい荒地に生えるマツには地中の広い菌のネットワークから集めたリンなどの無機栄養素を供給し、逆にマツからは糖などの光合成産物を受け取り、共存共栄=共生してきた。この場合には秋にはマツタケが顔を出すことになる。しかしマツが栄養豊かな場所に生育している場合、マツは地中の栄養素を自身の根から十分に摂取できるので共生関係を成立させなくなり、その結果マツタケは不作となる。放置した山林では落ち葉や下草が堆積して地面は富栄養化してくる。林を掃除することで地面を貧栄養に保つことがマツタケ発生につながるというスキームである。むかし話に出てくる、お爺さんは山へ柴刈りにという生活は必然的に山の地表を貧栄養にしていたのだった。
まつたけ山復活させ隊の創設者の故吉村文彦博士は、岩手県岩泉の任地でこの方法を活用してアツタケの林地栽培を研究し、岩泉を日本一のマツタケ生産地になるまで指導された。博士は退職後に帰京して京都でもアカマツ林を再生してマツタケ山を復活させることを模索された。そして母校洛北高校の旧友たちを主としたメンバーと当初まつたけ十字軍、後にまつたけ山復活させ隊と改称した集まりが結成された。現在まつたけ山復活させ隊には岩倉に根拠地(香川山BCと称している)と5箇所、和歌山高野山に1箇所の活動場所を持っている。これらはみな所有者のご厚意で使わせていただいているもので、BC以外はいずれも以前はマツタケの発生があった場所と伝えられている。会員は自分の思いに即して場所(班)を選んで松林の密度調整や地掻きなどを行って手入れを進めた。
活動には週1回の定例日を設けており、最近では毎回20名ほどが参加している。様子はhttps://blog.goo.ne.jp/npoiroem、https://https://blog.goo.ne.jp/iwamatsutakeyama3に記録している。ほとんどの会員が退職年代に属しており、京都市部のみならず、高槻、長岡京、宇治、大津等から通われる方も居られる。
2007年に岩倉の1箇所でマツタケの発生を見たが、松枯れの進行と、鹿・イノシシ等の食害がひどく、翌年以降に続かなかった。他の4箇所でも松枯れが進み適当なアカマツがほぼ無くなってしまったので、ほとんどの場所では実生や苗からアカマツを育てるところからの出発となった。新しいアカマツ林も育ってきているが、これらは最年長でも10~15年生なので、マツタケの発生を期待できるのはさらに数年以上の先と考えている。BCには土地造成で削った斜面に育った松林を手入れしている場所が1箇所あり、2016年にマツタケの発生が始まった。この林の年齢は確かではないが、造成後に実生から育った林と考えられることから、30年生ほどと推定される。ここでは強度の地掻きを施していて、最近の夏秋の異常な高温、少降雨と相まってシロの数も増えず昨秋は収穫は出来なかった。あたらしい林にも自然条件でシロが生じマツタケが発生するところまでを確認出来たのは大きな成果と考えているが、諸般の条件を知るのはまだこれからというところである。
当初からの長年会員もおられ、ここまでよく続けてきたなというのが偽らざる感想である。マツタケを再びという呼びかけに魅力を感じたということがきっかけだったけれども、これだけではなく、そういう人が集まっていること自体が面白かったので続いたということに違いない。
自分で樹を伐り、地搔きをして林床を整えた。材を運び出した。斧で割り薪にした。穴窯を造り、松を燃料に、松灰を釉薬にして器を作った。みな日頃、いや都市生活者には今までに経験したことのない新鮮な体験を楽しんだ。さらには菜園の作物を使い昼食(給食)の用意を始めた。各々の季節にはお祭りをした。=まつたけのお祭り、餅つき、芋煮会、山のコバノミツバツツジのお花見、さらに近郊のまつたけ山見学、東北、韓国へも。BCには内外の学生、生産組合の方々、フィールドワークの研究者など様々な訪問者を迎えた。山の作業だけではなく、すべての企画が新鮮で、他人をを楽しませることが楽しい人と、楽しむことが楽しいと自覚できる人が一体になった時間だった。
しかしこのような時間も自然に続くものと考えるわけにはゆかない。新形コロナウイルス感染症の蔓延と吉村氏がなくなる事態が重なり、定例の企画にも休止がやむを得なくなり、さらには活動全体も制限せざるを得なくなる時期がでてきた。そのなかでも秋にマツタケの発生を見るのは心躍らせられる有難い機会であった。しかしコロナで活動を一度縮小させたことは活動歴の長い高齢の会員には回復後にもそれなりの引退圧として作用しており、楽しませ楽しんだ記憶も、新しく参加してきた人たちにとっては伝統の昔話という圧力になっていることと懸念される側面が見えてきた。
アカマツ林やマツタケの生育サイクルは長いので、楽しく気長にお付き合いしてゆくことができないと復活も完成されないことになる。
現在の若いアカマツ林の生育の様子と、会員の年齢構成、会員の松との付き合いの経験量、会員歴を考えて、ともかくマツタケの発生を見ることが出来た今の時点こそがまつたけ山復活させ隊の次の運営をはじめる機会と考えて、今年春に殆どの班長さんが活動歴の新しい人と交代し、代表も来春には交代することにした。班長さんが交代し、これからのアカマツ林を新しい目でみている姿はブログ記事でご覧いただきたい。(もちろん900回ほど続けてきている過去の活動記録もご覧いただける)。今秋以降の諸般の成果を期待しているところである。
表題のARS LONGA は、まつたけ山復活の“技”を完成させるにはなかなか時間がかかる。VITA BREVIS は、この企ては一代では完了しないだろう。しかしまつたけ山復活させ隊は、健全な継承を続けてまつたけ山復活させ隊という存在で対応してゆくのだぞ(ので今が大事な時なのだ)と言っているのです。」
まつたけ山復活させ隊代表 内田正明
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それではまた来週24日10時にBCでお会いしましょう、さようなら(内田 記)