「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)1月14日(金曜日)
通巻7186号
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(休刊予告)週末(15日、16日)は小誌、休刊です
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カザフスタンの闇。トカエフは「二頭政治」体制を暴動に便乗して一元化へ
ナシモフ元首相拘束は、ナゼルバエフ前大統領「院政」の終わりの始まり
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アルマトイ等からロシア兵は撤兵を始めた。
暴動が収まって「訓練されたテロリストが組織的に行った」という総括の下、元首相を拘束するという意外な展開を見せ、闇に包まれていた背景が見えてきた。
つまり、ナゼルバエフ前大統領の形式的な権力禅譲とはイメージだけであり、国家安全会議議長はナゼルバエフ前大統領派が牛耳った。
トカエフ大統領は、このボスを拘束したのである。
トカエフ大統領はナゼルバエフ前大統領の傀儡と見られていたが、経験豊かなベテラン政治家であり、事実上は「二頭政治」体制だった。トカエフは、暴動に便乗して一元化へ走る。
だから治安、情報責任者のナシモフ元首相を拘束したのだ。
ナゼルバエフ前大統領「院政」の終わりの始まりとなる。
権力構造が交替する典型例に一つである。
以下は拙著『日本の保守』(ビジネス社)からの抜粋である。
「藤原仲麻呂の絶頂は(新羅征伐の準備が水泡に帰しても)、以後も三年ほど続いた。
だが光明皇后がみまかり、仲麻呂を毛嫌いするようになった孝謙天皇が即位して、淳仁天皇を煙たがり、険悪な関係となった。仲麻呂の世は唐突に終わりを告げる。
763年、興福寺別当で仲麻呂派だった慈訓が解任され、後任は誰あろう、弓削道鏡だった。同年に鑑真が死去した。道鏡が閨で何を囁いたかは定かではないが藤原仲麻呂の討伐が準備されていた。
764年、(ライバルの)吉備真備が太宰府から帰任し要職に就いた。
藤原仲麻呂は劣勢に立たされたことを自覚する。すでにその二年前から仲麻呂暗殺計画が練られており、藤原良継の変もあったが、首謀者らは筑紫、肥前あたりに左遷されただけの謹慎処分だった。藤原仲麻呂の権勢が揺らいだのは女婿の藤原御楯が死去し、自らの軍事力が明確に削がれたこと、後任の授刀衛督にライバル藤原北家から。正志(四等官)には道鏡の弟が就任し、つまり王城護衛軍は仲麻呂の統制から離れた。
孝謙天皇に絶大な信頼を寄せられ、「法王」の位に就いていたのは道鏡だった。
かつて仲麻呂が仕掛けたように謀をなし、仲麻呂の失脚を謀る計画は孝謙天皇のもと、軍略は吉備真備が臨機応変に立案し、動員計画をすすめ即応態勢を敷いた。
仲麻呂は危なきを自覚し近江から越前へ逃亡し越前国府に赴任している息子のもとで態勢の立て直しを図ろうとした。吉備真備は朝廷軍を先回りさせ、瀬田大橋を封鎖し近江に入れさせず、湖西方面へと仲麻呂軍を追いやり、要衝をすべて抑えた。これが藤原仲麻呂の乱(惠美押勝の乱)である。」(引用終わり)。
令和四年(2022)1月14日(金曜日)
通巻7186号
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(休刊予告)週末(15日、16日)は小誌、休刊です
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カザフスタンの闇。トカエフは「二頭政治」体制を暴動に便乗して一元化へ
ナシモフ元首相拘束は、ナゼルバエフ前大統領「院政」の終わりの始まり
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アルマトイ等からロシア兵は撤兵を始めた。
暴動が収まって「訓練されたテロリストが組織的に行った」という総括の下、元首相を拘束するという意外な展開を見せ、闇に包まれていた背景が見えてきた。
つまり、ナゼルバエフ前大統領の形式的な権力禅譲とはイメージだけであり、国家安全会議議長はナゼルバエフ前大統領派が牛耳った。
トカエフ大統領は、このボスを拘束したのである。
トカエフ大統領はナゼルバエフ前大統領の傀儡と見られていたが、経験豊かなベテラン政治家であり、事実上は「二頭政治」体制だった。トカエフは、暴動に便乗して一元化へ走る。
だから治安、情報責任者のナシモフ元首相を拘束したのだ。
ナゼルバエフ前大統領「院政」の終わりの始まりとなる。
権力構造が交替する典型例に一つである。
以下は拙著『日本の保守』(ビジネス社)からの抜粋である。
「藤原仲麻呂の絶頂は(新羅征伐の準備が水泡に帰しても)、以後も三年ほど続いた。
だが光明皇后がみまかり、仲麻呂を毛嫌いするようになった孝謙天皇が即位して、淳仁天皇を煙たがり、険悪な関係となった。仲麻呂の世は唐突に終わりを告げる。
763年、興福寺別当で仲麻呂派だった慈訓が解任され、後任は誰あろう、弓削道鏡だった。同年に鑑真が死去した。道鏡が閨で何を囁いたかは定かではないが藤原仲麻呂の討伐が準備されていた。
764年、(ライバルの)吉備真備が太宰府から帰任し要職に就いた。
藤原仲麻呂は劣勢に立たされたことを自覚する。すでにその二年前から仲麻呂暗殺計画が練られており、藤原良継の変もあったが、首謀者らは筑紫、肥前あたりに左遷されただけの謹慎処分だった。藤原仲麻呂の権勢が揺らいだのは女婿の藤原御楯が死去し、自らの軍事力が明確に削がれたこと、後任の授刀衛督にライバル藤原北家から。正志(四等官)には道鏡の弟が就任し、つまり王城護衛軍は仲麻呂の統制から離れた。
孝謙天皇に絶大な信頼を寄せられ、「法王」の位に就いていたのは道鏡だった。
かつて仲麻呂が仕掛けたように謀をなし、仲麻呂の失脚を謀る計画は孝謙天皇のもと、軍略は吉備真備が臨機応変に立案し、動員計画をすすめ即応態勢を敷いた。
仲麻呂は危なきを自覚し近江から越前へ逃亡し越前国府に赴任している息子のもとで態勢の立て直しを図ろうとした。吉備真備は朝廷軍を先回りさせ、瀬田大橋を封鎖し近江に入れさせず、湖西方面へと仲麻呂軍を追いやり、要衝をすべて抑えた。これが藤原仲麻呂の乱(惠美押勝の乱)である。」(引用終わり)。
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