さて、立正安国論について考える事を続けていきます。
創価学会もそうですが、その派生元である日蓮正宗でも「広宣流布」という事を語り、日蓮仏法という日寛師の教えを広める事で、この社会が安寧で平和になると言っていました。しかし立正安国論では、そういった宗教行為については否定的な言葉が書かれています。
「然る間或は利剣即是の文を専にして西土教主の名を唱え或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の経に因て五瓶の水を灑ぎ有るは坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て若くは万民百姓を哀んで国主国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり」
この部分を読み解くと、世の中が悲劇に見舞われている間、ある人は「利剣即是」の文により阿弥陀仏の名号を唱え、ある人は「衆病悉除」の願掛けをして東方薬師如来の経典を読誦し、ある人は「病即消滅不老不死」の言葉を信じて法華経お経文を崇め・・とある様に様々な宗教的な行いや祈祷を行ったとあり、最後には政治で「徳政令」を施行した事も述べていますが、これらは一向に状況を改善する事にならないばかりか、悪化の一途であったと言っているのです。
人の社会というのは、人が制御できない状況に陥ると、そこで宗教的な行為にすがるという事が往々にして行われる事ですが、そういう事が如何に無意味である事なのか、この立正安国論の冒頭で語られているのです。
◆日蓮が思考した事
立正安国論で日蓮が思考したのは、どういった事なのか。この冒頭の部分を観ると「或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め」と書いてある様に、単に法華経を弘める事や経典を崇める事すら、当時、既に懐疑的であったという事が解ります。では日蓮は何が原因であったと考えていたのか。
「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。」
ここで自身が思考した結果、社会が「正しい」事に背き、全ての人が「悪に帰す」事から諸天善神は国を捨て、国を守るべき聖人もどこかに行ってしまった事から、変わりに国に「魔来り災起り難起る」となったと言うのです。
そして日蓮が立正安国論で鎮護国家三部経である「金明光経」や「仁王経」等の経典を、単なる「功力のある経典」と崇める事ではなく、大乗経典の最高峰である法華経に対する「解説書」として読み解きました。各経典の「此の経」という経典を法華経として解釈し、法華経の教えを軽んじてしまった事から、これらの災害が起きたという理論を述べたのです。
従来の官僧であれば「これらの経典には法力がある!」と言って、それまでは儀式として講義をしたり、読誦をしたものを、これらの経典に法華経を中心とした解釈を与え、展開したのです。つまりこれは「経典の法力」というものを否定した事であり、仏教という思想の本来の在り方を示し、それに則る事を「正しい」とし、それに則らないものを「悪」としたのです。そしてその「悪」を当然の事として受け入れている事が、そもそもの問題であるという事を提起したのが立正安国論なのです。
◆現代にとってどう解釈すべきか
また当時の社会の構造は、その根底には仏教思想があった時代です。その時にその仏教思想に対して「正しい」「悪」という観点を示し、そもそも社会の在り方について提起をしたのが立正安国論です。
しかし現代の社会の根底には、既に仏教はありません。いや、従来の仏教を社会の思想の根底に置く事は、今の社会では取りえない時代なのです。何故ならば社会にはキリスト教もあればイスラム教もあります。また神道やその他の宗教の人達も居るのです。社会に生活する人も、日本人だけではなく、世界に目を向けても多種多様な文化を背景に持った多くの民族が共存する社会となっています。
この様な多様性のある社会であり、且つ近代国家は「政教分離」を定め、特定の宗教に肩入れする事を否定している中で、仏教の事だけを指摘して「これは正しい」「これは間違いだ」という事を言えるほど、単純な社会ではありません。
また近年になって、大乗仏教の成立について、幾つかの歴史的な研究も進んできましたが、そこでは天台大師智顗の主張した教判(宗教の比較相対)も、あまり意味の無い事が解ってきました。だからそれを引き継いで構築された日蓮の「五重の相対」という理論も、今の時代ではあまり意味を為さないものとなりました。
唯一、仏教の中から取り入れられる思想としては、久遠実成や一念三千に象徴される心の仕組み。また般若経に述べられている「空観」といった思想などは、新たな思想構築としては取り入れられるべき内容なのかもしれません。
要は立正安国論冒頭にある「様々な宗教行為の否定」にある様に、単なる宗教行為や、その宗教を弘める事で社会が安寧になるという事ではなく、その社会の根底にある人間観、社会観に対して切り込みをかけて行かない限り、社会の安寧や平和は訪れる事が無いと理解すべきなのです。
そう考えると単に「経にいわく」という文言を引用して指摘しただけで、いま世界が武漢肺炎で大混乱している状況や世の中の混乱に対して、明確な回答を出せない事は明白な事だと思いますよ。
こういった事、宗門の信仰人や創価学会のバリ活動家は苦手ですよね。でも少しは考えてほしいものです。