先の記事で勤行の事を少し書かせてもらいました。日蓮正宗系の宗教団体(創価学会や顕正会等も含む)では、勤行という事で、この法華経の方便品と如来寿量品を読誦している。しかしながらその法華経とは如何なる経典なのか、まともに語れる人はこの信徒の中には残念ながら殆どいないのでは無かろうか。
自行(自ら行う修行)である勤行で読む経典の意味も知らずにいる事について、創価学会では「蛍光灯の仕組みを知らなくてもスイッチ点ければ明るくなる。」と言い、敢えてその意義や内容を知らなくても、作法通りにやれば良いんだという乱暴な理屈で通しているが、果たしてそういうものなのか。
例えば祈りを行う場合、その内容を具体的にイメージする事で、祈りは具現化するという話がある。これは創価学会の教学部師範であった某副会長が、過去に「教学研究」という冊子で語っていた事だが、この場合、日常的に行う勤行についても同様な事が言えるのではないか。つまり読誦する経典とは如何なるものか、理解もしてないで読誦するのは、本来勤行をする目的と異なり修行にもならないだろう。
とまあ、そんな事を私は考えているが、ここで少し法華経という経典と、読誦している二品の意義について少し書いてみたいと思う。
法華経について。法華経は紀元500年頃にインドで成立した経典と言う事まで、現在の所判明している。これは大乗仏教の成立時期と同じ頃であり、この事から法華経は釈迦直説の経典ではないという法華経非仏説論が以前から言われている。しかし私は法華経が釈迦直説であるかどうか、そこはさしたる問題ではないと考えている。何故なら仏教とは釈迦を期限とした思想哲学の集大成という事であれば、起点が釈迦であり、その後の人たちがその起点を元に思索を重ね、積み上げてきたものであれば、そこに「釈迦直説」にこだわる必要性を感じない。また既存の経典、これは南伝仏教であろうと、北伝仏教であろうと、はたまたチベット仏教であろうと、その経典の内容自体、釈迦の直説と証明できるものは何一つもない。また第一回経典結集の際に、阿難尊者を中心として経典を取りまとめた事は有名だが、そもそも釈迦の説法とは「対機説法(相手がいて、その人に対する説法)」であったものを、普遍化したという時点で実は「釈迦直説」とは異なるものになっているのではないだろうか。そういう観点で考えたとき、あえて釈迦直説にこだわる意味もないとは思わないだろうか。
さて、話を戻して。このインドで成立した法華経は、漢訳されて中国に伝来したが、この際、現存しているのは三人の漢訳者による経典で、一つは竺法護が訳した「正法華経」、もう一つが鳩摩羅什が訳した「妙法蓮華経」、そしてもう一つが闍那崛多・達磨笈多共訳の「添品妙法蓮華経」である。この三つの漢訳の中で一番正確なのは鳩摩羅什訳の妙法蓮華経であり、現在は法華経といえば妙法蓮華経とされている。
この法華経は大乗仏教(北伝仏教)の教えの中で、最高位とされているが、日蓮によればこれは「一念三千」という教理が説かれているからであると言う。この一念三千には私達の心の中には既に「仏性」が備わっている事を明かしていて、それが故に最高の教えである所以で、この一念三千の肝要な部分が説かれているのが、勤行で読誦している方便品第二と如来寿量品第十六なのである。ここでもう少し具体的にこの内容について法華経の中身を読み進めてみたい。
恐らく勤行を実践している人達にはこの事は興味も無いと思うが、お付き合い頂けたら幸いだと思う。
まず方便品第二だが、「爾時世尊従三味〜」と始まっている。ご存じのようにこれは漢文であり、読経の際にはこれを音読にして読んでいるが、ここには何が書かれているのか。法華経で方便品の前の章の序品第一で釈迦は「三味」という瞑想に入ったが、方便品の始めで釈迦は瞑想から立ち上がると弟子の舎利法に対して説き始めた。
「諸仏の智慧は甚深無量なり、その智慧の門は難解難入であり、一切の声聞や辟支仏は知る事能わず」
その後、一方的に舎利弗にこの甚深無量の智慧や智慧について讃嘆することを続け、舎利弗から一切質問することを止め説き続け、「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。」と述べたのちに「所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。」と説いたのである。これは「十如是」だが、これは諸法の仕組みについて表している。
ここで少し「諸法実相」ということについて説明してみたい。ここでいう「諸法」とは様々な事象(現象)を指し「実相」とはその様々な事象を起こす本源を指す。そしてここでは「諸法」について十如是という事について説き明かしたのである。
方便品第二はこの十如是を説いた後も続くが、勤行という事で読誦するのはこの十如是までである。そしてその十如是については「所謂諸法の」の部分から三回繰り返して読誦することになっているが、これは何故繰り返すのか。そこには天台大師智顗の「法華玄義」にある「空諦・仮諦・中諦」の意義を踏まえての事だそうだ。これは日蓮宗の資料に基づいているが、要はこの世界をありのままに見据える」という意義があるそうだ。しかしここでこの「空・仮・中」の三諦については割愛する。そこは本稿で語るべき内容では無いからだ。
さて、この十如是が極めて法華経の中でも重要な事なのだが、勤行で読誦するのもこれが要諦の一つであり、三回も繰り返し唱えるという事はそれを表してもいる。ではこの十如是にはどの様な意味があるのか。そもそも一念三千という教理の要素としてこの十如是があるのだが、その内容について少し考察を進めてみたい。私は別に宗教学者でもなく、特定の宗派に属している訳でもないので、ここでは少し自由な形で考えた事をまとめてみたいと思う。
十如是は以下の十の事が示されている。
如是相:見た目の姿や表情などを指す。
如是性:持ち合わせた性質、性格などを指す。
如是体:相と性が合わさり体となる。
如是力:体となったものは周囲に対して力用を持つ。
如是作:周囲に働く力を持つことは作用を起こす。
如是因:作用は何かしらの原因を作る。
如是縁:作られた原因は縁により結果を表出する。
如是果:原因が結果を生み出す。
如是報:生み出された結果により報いを得る。
如是相から始まり如是報までは一貫して境涯に即した姿を示す事を「本末究竟等」という。
このように十如是の言葉を並べたところで、なかなか具体的なイメージはつきにくいと思うので、ここで私自身の生活の上から少し十如是について考えてみたい。
ある朝、私が目覚めたとする。夢見が悪ければその瞬間の私の一念は悪しきものかもしれない。十界論を展開した「十界互具」で言えば、もしかしたら地獄界の中の餓鬼界の一念かもしれない。するとその瞬間の私の顔の表情や行動はそういった姿(相)を表していると思う。そしてそこには私自身の性格的なもの(性)も重なって姿として体現している(体)だろう。もしかしたらそこで朝忙しい中、わざわざ起こしに来た嫁に対して不機嫌な言動をとるかもしれない(力)。すると嫁はその私の姿や言動を見て「何を朝から不機嫌なんだ!私だって朝忙しい中でも遅刻してはいけないと起こしたのに!」と思わせるだろう。(作)そしてそれは嫁の中に不快な記憶を残してしまう。(因)
その後私は仕事に出て一日を過ごし、夜帰宅する。そしてその時にふと何気ない言葉を嫁に投げかける(縁)。すると嫁が朝の私からの不愉快な出来事を思い出し(果)怒り出す(報)。
この一連の事は、私が朝起きた時の不機嫌さ(地獄界の中の餓鬼界)により受けるもので、首尾一貫した表れなのである。(本末究竟等)あまりいい例えとはならないが、この様な感じで例えられると思う。
要を言えば瞬間瞬間の一念の働き(これは実相ともいえる)が、このような仕組みにより、個人の一念という心がどの様に生活の中に展開され、そしてそれは社会の動き、環境へと展開されるという事を十如是は示している。一念がその人の姿、そして持ち合わせた性質(性格でも良い)と相まって体現していて、それは常に周囲に影響を与えている。またそこで発生する様々な原因は、時を経て縁に触れ結果として報いを本人は感受する。それは瞬間に起きた一念の境涯に拠るもので首尾一貫しているというのだ。そしてこの世界はこの個人の心の一念が相まって複雑に絡み合い社会の姿、そして環境に波及していく。これこそが諸法の仕組みなのである。
この様な法華経としてとても大事な内容が説かれているからこそ、勤行という自行(個人の修法)の時に読誦をする事になっているのだろう。
創価学会もそうだし顕正会等もそう、そして法華講の中にもよく「因果の理法」という言葉を使う人がいるが、その因果とて一念から発生し、それが何かしらの縁に触れて結果として発現、その後またその結果により新たな原因が作られるという、謂わば因果のループこそが、この世界のもろもろの現象の仕組みの姿であると認識している人が、一体どれだけいるのだろうか。単に方便品は呪文として読めば済むという内容ではないと私は思うのである。