はじめまして。斉藤単己と申します。
「単己」とは法華経の従地涌出品第十五の以下の言葉を元にしています。
各六万恒河沙等の眷属を将いたり。
況んや五万・四万・三万・二万・一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。
況んや五万・四万・三万・二万・一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。
(中略)
況んや復単己にして遠離の行を楽えるをや。
私は日蓮系の某巨大宗教団体で若い頃い活動をしていました。しかし四十代になってから、そこで教えられてきた事に疑問を持ち、自分なりに様々な事を調べ、学び、思考を続けてきたのです。
結論から言えば、そこで学んだ事、教えられてきた事は、大きな「デタラメ」であり、組織のために「我田引用」した内容である事を理解しました。
しかし残念な事ですが、そこの結論に達するまで十年以上の時間を要してしまったのです。
この事は何もその某巨大教団に限った事ではありません。
恐らく日蓮を語る教団の教えの多くには、同じ問題を持ち合わせています。
仏教の開祖である釈尊は、弟子で「多聞第一」と言われたアーナンダに以下の言葉を語ったといます。
「アーナンダよ。このようにして、修行僧は自己を灯明とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自己を灯明とし。自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、彼らは私の修行僧として最高の境地にあるであろう、-誰でも学ぼうと望む人々はー。」(二十六)(大パリニッバーナ経』二)
アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自己を灯明とし。自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、彼らは私の修行僧として最高の境地にあるであろう、-誰でも学ぼうと望む人々はー。」(二十六)(大パリニッバーナ経』二)
人は本来、心の自由を保障されるべきなのです。そして仏教では「自燈明・法燈明」という言葉で、その大事さについて語られています。
しかし日蓮教団に属する人達の多くは、この現実に気付く事はありません。多くは「自分の意志」と錯覚させられ、それぞれの宗教団体に従えられているのが現実であると思うのです。
またこの事は、何も日蓮教団に限った事ではなく、世の中にある多くの宗教団体にも内在する問題であり、その根本を辿れば人間のDNA(遺伝子)レベルにそういった弱みを組み込まれているのではないかとも思えるのです。
このブログでは、私自身がその結論に至った事について、自分自身の思考の軌跡をまとめてみたいと思っています。
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