楽園づくり ~わが家のチェンマイ移住日記~

日本とタイで別々に生活してきた私たち家族は、チェンマイに家を建てて一緒に暮らし始めました。日常の出来事を綴っていきます。

タクシン一族の野望

2011-07-07 00:00:03 | タイの政治経済

今日は予定を変更して、タクシン氏、というかシナワット一族のことを取りあげます。というのは、私を含めてタイに暮らそうと考えている人にとって、「タクシン」あるいは「シナワット」という言葉は何度も何度も聞かされる名前だからです。シナワットファミリーはチェンマイと深いかかわりがあります。

そこで、7月5日付けのニューヨークタイムスの記事をそのままご紹介しようと思います。この記事で紹介されているタクシン氏、あるいはシナワットファミリーのことは、ウィキペディアにも書いてないことが殆どです。アメリカ人の記者が選挙後にタクシン氏の出身地で取材して書いた記事だからです。なるべく原文に忠実に翻訳したつもりですが、不正確な意訳や誤訳が含まれているかもしれません。その点はご容赦いただきたいと思います。その意味でも、最後に原文へのリンクを付けておきました。

 

またシナワットが政治的マジックに成功

トーマス・フラー

サンカムぺーン、タイランド、

シナワットファミリーはまた尋常ではないことを成し遂げた。タイで最も富める一族のひとつが、貧しくて政治的には何の力もなかった人たちの問題を理解し、痛みを感じ、その権利のために戦ってくれる、と彼らに信じ込ませたのだ。

持たざる者を擁護することによって、日曜日の選挙を勝利した大富豪の逆説 ー それは敵を面食らわせる考えなのだが ー その逆説は、シナワットファミリーの本拠地であるここサンカンペーンにおいては隠し立てもなく全面開示された。

薄汚い市場の露店や今にも壊れそうな店々で、タクシン・シナワットと、今やタイで最初の女性首相になろうとしている一番下の妹インラックに対する支持を誇示するために、住民たちは赤い旗を振りかざした。

「われわれはものすごく嬉しい。安堵している。」そう言ったのは、市場でピーナッツと豆を売って糊口をしのぎ、夜は食堂で歌っている55歳の住民ソンブーン・カムドゥアンさんだ。

ソンブーンさんは、自分はテレビで選挙の結果を見守り、勝利を祝うために日曜日に市場に集まった多くの住民のひとりにすぎないと言った。

インラック女史に率いられたプータイ党(タイ貢献党)の驚くほどの圧倒的な勝利のあと、タイ北部と東北部では同様の光景が見られた。プータイ党の反対者たちは、大衆迎合政策が押し寄せてくること、国の借金が膨らむこと、そしてタクシン氏がもたらした(と彼らが言っている)民主的なチェック・アンド・バランスの希薄化の再来を恐れているのだ。

しかし今また活気づく「シナワット政治王朝」誕生の地では、日曜の勝利は私的なものでもあったのだ。

「私たちは2006年からずっと苦しめられてきたのです。」と言うのはタクシン氏と地元の小学校でクラスメートだったピヤポン・プークライさん、61歳。その年の軍事クーデターがタクシン氏を権力の座から引きずりおろしたので、ここでは日曜の選挙は、彼の汚名をそそぎ、クーデターを画策した者への挑戦だと見られていた。

月曜日には、ピックアップトラックを連ねたプータイ党のキャラバン隊が、街を勝ち誇って走っていた。ラウドスピーカーからは、選挙民に対する感謝の言葉がガンガン鳴り響いていた。「われわれは、あなたに、兄弟たちに、姉妹たちに、幸せを返します!ありがとう!」

キャラバン隊は、78%を得票して議員に再選されたタクシン氏の姪のチンニチャ・ウオンサワット氏が率いていた。29歳の彼女は、シナワットファミリーの最も若いメンバーだ。

彼女もますます大きくなる王朝に加わっているのだ。1969年、タクシン氏の父であるラートは下院議員に当選し、2年ほど在任した。(約40年後の息子と同様に、彼の任期は軍事クーデターによって邪魔された。)タクシン氏の妹のヤオワラックは、ここサンカンペーンから車で30分の距離にあるチェンマイ県庁に勤める役人だった。タクシン氏の弟のパヤップは、2006年のクーデターまで1年間議員を務めた。

そして最後に、日曜日にインラック女史が議員に当選し政界デビューを果たしたのだ。それまで彼女はタクシン氏のビジネス帝国で一人の重役として働いていた。

シナワットファミリーは、1911年にシルクビジネスを始め、ここ数十年、その経済力を政治力に転換してきた。

1900年代のはじめにタイ北部にやってきた中国移民として、祖先はアウトサイダーだった。しかしファミリーは地域に根をおろし、地元の村人と結婚し、土地を買い、果樹園を開き、金を貸して、間もなくその地域の大君主となった。

住民の一人で、かつてシナワットファミリーで働いていたバンコーン・アオパラ76歳は、ファミリーの成功の秘密を、勤勉さと問題処理能力、そして「みみっちさ(けち)」の混合だと語ってくれた。

彼女が言うには、ファミリーが地域で力を持ったのは、ひとつには金を貸し、借りた人が返せないときは、土地を取り上げたからだという。

ここではファミリーの悪口を言う人を見つけるのは困難だ。なぜなら、サンカムペーンのたくさんの人々がファミリーのために働いているし、借金もしているからだ。

街のビルのほとんどは、シナワットファミリーのさまざまな分家の人たちが所有している。そう語るのは、ファミリーのビジネスのひとつであるシルクショップのカウンターの向こう側に座るペンパン・スピタヤポーン、58歳だ。

シルクビジネスはずっとうまくいっていたのだが、月曜日に店を訪ねてみたら、客よりも、身寄りのない猫のほうが多かった。店にはタクシン氏と、式典に出席しているファミリーの肖像が額に入れて飾ってあり、いってみれば政治的聖地のようになっている。

住民たちは、タクシン氏がこの街で、取るに足らないような仕事をしていたときのことをよく憶えている。クラスメートのピヤポン氏は、タクシン氏と一緒に通りでアイスクリームを売っていたし、市場の中にあったコーヒーショップで彼の父親を手伝ったこともあったという。

恐らくこうしたことが、タクシン氏が選挙民と結びつく能力をはぐくんだのだ。そしてそれは、通信や他の分野のビジネスで巨万の富を築いた後も消え去ることのなかった彼の 特質なのだ。

タクシン氏の弟のパヤップは、月曜日の電話インタビューでこう言っている。ファミリーのビジネスの性質が農民たちの支持を得るのに役立ったと。

彼は言う。「われわれは果樹農家だったのです。」そして北部タイではごくありふれたトロピカルフルーツの名前を出して、「われわれはオレンジとマンゴーとロンガンの木を植えました。それでわれわれは、ほかの人たちよりも強く農民たちと結びつくことができたのです。」

タクシン氏の田舎のバックグラウンドは、政策を作るときにも役立っている。とりわけ、自治体の財政スキーム、穀物価格の維持政策、そしてユニバーサル・ヘルスケア。これらが田舎の有権者たちに受け、支持を確固たるものにしたと、パヤップ氏は言った。

タクシン氏のクラスメートのピヤポーン氏にとって、シナワット一族の興隆は運命というものに近かった。彼は、50年前のお寺のお祭りでの出来事をよく憶えている。彼とタクシン氏が僧侶に会い、「君たちは将来何になりたいのかね?」と聞かれたときのことだ。彼らは7歳か8歳だったが、タクシン氏はこう答えたのだ。

「僕は首相になりたいと思います。」

「この言葉は今でも私の頭の中に残っています。あの当時、子供がそんなことを言うのは考えられなかったのです。」

 http://www.nytimes.com/2011/07/05/world/asia/05iht-village05.html?_r=1&scp=3&sq=thaksin&st=cse

  (ニューヨークタイムス2011年7月5日) 

 これを読むと、タクシンが北部で絶大な支持を得ているのは、単に、ばらまき政策をやったからというだけではなさそうです。中国からタイに移住してきた100年以上前の祖先のDNAが生きているということでしょう。失礼ながら祖先はあくどい金貸しもやったのかもしれません。しかし、それだけでは地元に支持されることはなかったでしょう。北部訛りのタイ語を修正することもなく、かつての日本の田中角栄のように農村部の利益拡大を本気で考えたのかもしれません。

  さて、タクシンの政策がまた復活するのかどうか、それはこれから明らかになっていくでしょう。それは、タイへの移住者の暮らしと無縁の話ではないと思います。 

 

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