徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

2024もう一つの日光史跡探訪探勝路 憾満ヶ淵

2024-12-04 22:14:27 | 日光
2024 11/12 日光 憾満ヶ淵~大日橋/大日堂跡
もうひとつの日光は日光総合会館前を出発し、浄光寺を経由して憾満ヶ淵に寄り、寂光滝を経由して日光奉行所跡に至る[9]、約8 km・徒歩3時間のコースである。今回は史跡探勝路の一部、憾満ヶ淵から大日橋/大日堂跡までを歩いた

憾満ヶ淵(かんまんがふち)または含満ヶ淵(がんまんがふち)は、栃木県日光市にある小さな渓谷。慈雲寺境内と化地蔵のある大谷川沿いの一帯を指す。対岸側は日光植物園


大谷川の急流が川床の巨石(安山岩)にぶつかり、黒い岩と白い水しぶきの対照的な自然美を眺めることができる
憾満ヶ淵を流れる水の音が、不動明王の真言(咒文〔じゅもん〕)を唱えているかのように聞こえることから、真言の終わりの語句「カンマン」を取って命名した。憾満および含満は当て字である。含満という漢字表記から「がんまんがふち」と呼ばれることが多いが、名前の由来に立ち返れば、「かんまんがふち」の方が正確


霊庇閣
慈雲寺本堂から上流に進むと、霊庇閣がある。霊庇閣は憾満ヶ淵を見下ろす位置にあり、対岸の巨岩の上にあった不動明王の石像に向かって護摩供養を行うための護摩壇であった。急流の多い憾満ヶ淵の中で、霊庇閣の前だけは水流が緩やかになる


化地蔵


霊庇閣から上流方向に進むと、薄暗い木立の中に数多くの地蔵が一列に並んでおり、化地蔵(ばけじぞう)、並地蔵(ならびじぞう)、百地蔵(ひゃくじぞう)、百体地蔵(ひゃくたいじぞう)などと呼ばれている


化地蔵は、同じような地蔵が何体も並んでいるので、何度数えても数が合わないことに由来するという説と、仏教用語の抜苦与楽の抜苦が変化して「化」になったとする説がある。


苔むした衣装をまとっているかの様


化地蔵は天海の弟子たちが日光山の歴代の僧侶の菩提を弔うために作ったものである。すべて座像で、川の方を向いている。苔に覆われ、赤いよだれかけをしているのは共通するが、首の向きは地蔵によって下を向いていたり、正面を向いていたり、首をかしげていたりとさまざまである


また、時代の経過により顔の線刻は薄くなっている。往時は100体程度あったとされるが、1902年(明治35年)の洪水で一部を流され、現存する地蔵は70体程度である


流された地蔵には、化地蔵の先頭に並んでいた親地蔵も含まれる。親地蔵は頭部のみ川床で発見され、市内の浄光寺に「御首」として安置されている。


さらに大谷川上流を日光高速道路沿いに歩いていくと、大日橋に
大日橋は、2000年10月に開通した新しい橋で、周囲は綺麗に整備された公園になっている


大日堂は明治35年9月の大洪水で流失しましたが、かつては東北御巡幸の明治天皇も立ち寄られたほどの景観を誇る美しい庭園でした
現在は20体ほどの石仏が静かに並んでいるのみとなっています


明治9年(1876)の中禅寺行幸では明治天皇が大日堂で少憩されている。


大日堂跡には芭蕉の句碑が残されている









最新の画像もっと見る

コメントを投稿