10/18 那珂川町の乾徳寺と馬頭院
乾徳寺は晴れの日の再訪です。
箒をもった小坊主さんが出迎えです
那珂川町馬頭 乾徳寺(けんとくじ)
乾徳寺の創建は明応8年(1499)当時の武茂城城主武茂兼綱が開基となり常陸耕山寺住職舜芳和尚が開山したのが始まりと伝えられています。以来、武茂家代々の菩提寺となり社殿の造営や寺領の寄進など庇護されていましたが、守綱の代で佐竹氏に従属するようになり豊綱の代の文禄3年(1594)に太閤検地で那須氏内応の噂が流れ常陸の久慈郡大賀村に知行替えになりました。関ヶ原の合戦では佐竹氏は東西中立の立場を取った為、秋田に移封となり武茂氏はこれに家臣として随行しました。乾徳寺は庇護者を失い一時衰退しますが江戸時代に入ると幕府から庇護され27石の朱印状を受け取っています。明治36年に火災により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失しその後再建しています。山門は武茂城の大手門を移築したものと伝わる門で門の両側に武茂家の家紋が刻まれ、棟札には安永2年(1773)に改修したことが記されています
本堂
馬頭院は初めて訪れました。乾徳寺から程近く、北西の県道沿いの高台に位置します。馬頭院の正式な名称は「武茂山十輪寺馬頭院」です。
真言宗智山派に属し、総本山は京都の智積院です
観音堂
馬頭院概要: 馬頭院の創建は建保5年(1217)醍醐寺 第二十七代、三十代座主である光宝上人が延命地蔵菩薩像(平安時代作-栃木県指定重要文化財)を安置し馬頭観音を勧請したのが始まりと伝えらています。寺名は「勝軍山 地蔵院 十輪寺」。一時衰退しますが正和元年(1312)に光範和尚が伏見院御震紺紙金字金泥八巻を奉納し、堂宇の再建などを行い再興しています。元禄5年(1692)水戸藩主徳川光圀の庇護となり"武茂山馬頭院"の扁額を寄進すると10万石の格式を与え、堂宇修繕や改築を行っています。
右側の木は光圀が植えたとされる枝垂栗
乾徳寺は晴れの日の再訪です。
箒をもった小坊主さんが出迎えです
那珂川町馬頭 乾徳寺(けんとくじ)
乾徳寺の創建は明応8年(1499)当時の武茂城城主武茂兼綱が開基となり常陸耕山寺住職舜芳和尚が開山したのが始まりと伝えられています。以来、武茂家代々の菩提寺となり社殿の造営や寺領の寄進など庇護されていましたが、守綱の代で佐竹氏に従属するようになり豊綱の代の文禄3年(1594)に太閤検地で那須氏内応の噂が流れ常陸の久慈郡大賀村に知行替えになりました。関ヶ原の合戦では佐竹氏は東西中立の立場を取った為、秋田に移封となり武茂氏はこれに家臣として随行しました。乾徳寺は庇護者を失い一時衰退しますが江戸時代に入ると幕府から庇護され27石の朱印状を受け取っています。明治36年に火災により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失しその後再建しています。山門は武茂城の大手門を移築したものと伝わる門で門の両側に武茂家の家紋が刻まれ、棟札には安永2年(1773)に改修したことが記されています
本堂
馬頭院は初めて訪れました。乾徳寺から程近く、北西の県道沿いの高台に位置します。馬頭院の正式な名称は「武茂山十輪寺馬頭院」です。
真言宗智山派に属し、総本山は京都の智積院です
観音堂
馬頭院概要: 馬頭院の創建は建保5年(1217)醍醐寺 第二十七代、三十代座主である光宝上人が延命地蔵菩薩像(平安時代作-栃木県指定重要文化財)を安置し馬頭観音を勧請したのが始まりと伝えらています。寺名は「勝軍山 地蔵院 十輪寺」。一時衰退しますが正和元年(1312)に光範和尚が伏見院御震紺紙金字金泥八巻を奉納し、堂宇の再建などを行い再興しています。元禄5年(1692)水戸藩主徳川光圀の庇護となり"武茂山馬頭院"の扁額を寄進すると10万石の格式を与え、堂宇修繕や改築を行っています。
右側の木は光圀が植えたとされる枝垂栗
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