足尾銅山が山間僻地の交通不便な土地にあり 地元に商店がなかった頃には倉庫制度は必要不可欠であった。
しかし 坑夫や鉱夫が増え全国から商人たちも来山し足尾銅山が栄え 北部の赤倉、間藤方面や小滝方面の商店街が栄えるにつれて倉庫品目が次第に減ってきたことは既に述べた。
銅製造業の足尾鉱業所がいつまでも生活用品の調達 配給として商葉活動をすることは望ましいことではなかった。
鉱業所ではもっと鉱夫の生活に独立向上心を持たせるべきてあるという考えもあった。 鉱夫たちにとってももっと多くの日常必要品や商品を自由に購入したいという欲求があった。 銅山御用となって、生活の安定と商売繁盛を考える町の商人たちの思惑もあったに違いないし、そこで購買組合の設立という声が次第に強まってきていた。 こうして誕生した購買組合を足尾では「三養会」と後に名付けた。
・三養会の語源 中国の詩人 蘇東披「群談飴採」より
安分以養福 ->分(ぶん)に安んじ もって福を養う
寛胃以養気 ->胃を寛(ゆるやか)にして もって気を養う
省費以養材 ->費(ついえ)を省(はぶ)いて もって材を養う
「福」 「気」 「財」の三を養うという意味
三養会 通洞売店 2016年 8月撮影 営業中 通洞の銅山観光の近くにある
先ずその設立の時期を確かめたい。
足尾銅山購買組合本山三養会 明治四十一年(一九〇八)十一月二十三日
″ 小滝三養会 明治四十五年(一九一二) 七月 二日
″ 通洞三養会 大正元年(一九一二) 八月二十三日
三養会は米 味噌など三十五品目の倉庫て配給される品目以外の日用品を一括購入して、会員にに配給したり、販売する目的で出来た鉱夫の自治的な組織で会員が必ず一定の出資をし、その積立金の運営によって安くて品質のよい物資の配給を受けるための購買組合てある。
しかし 三養会は自治組徽とはいえ あくまでも鉱業所主導の組識で、採鉱課の監督下にあった。 足尾鉱業所が積極的に本山坑夫飯場組合に働きかけ、 飯場頭を通して組下の坑夫や鉱夫の理解を求め、彼等を株主(会員)として ここに本山購買組合を発足させている。 ただ当時は 購買組合とはいわずに購買会と呼んでいたことのみを付け加えたい。
通洞売店の内部 日用雑貨、生鮮食料品などが並んでいる。
・本山購買組合三養会
かくして 本山購買会は生れた。 続いて小滝や通洞にも購買会の誕生をみた なお 古河鉱業の好問鉱業所ではぐっと遅れて 大正六年二月 従来の倉庫貸下制度を廃止して購買会に改めた。 日光電気精銅所は創立当初(明治四十年)より貸下制度を置かず 購買会のみによっていたので、足尾よりは設立がやや早く 購買会では先輩であったといえよう。
足尾の購買組合は三養会と呼ばれていた 三養会は財、気、福の三徳を養うという意味で 中国の有名な詩人蘇東披の文章カら引用して 佐々木敏綱所長が名付けたといわれている。しかし 氏は大正十二年九月足尾鉱業所の副所長として来山し 昭和二年に所長になった方てある。 大正八年に古河鉱業株式会社がまとめた『古河鉱業 使用人一般状況』には既に 三養会の名和が使われているのて 恐らく命名者は設立当時の鉱業所長近藤陸三郎であるか 佐々木敏綱以前の所長てあったであろう。
三養会員は足尾鉱業所に勤務する 主として採鉱課鉱夫て株金を納入したものに限られ 株金は一株五円(ただし通洞は三円)とした。 取扱品目は倉庫配給品以外のもので 呉服太物類、食料品、器具類、小間物類、雑品なと多数あり 三方面の三養会が中央購入部を設け、専ら原産地より仕入れをした。 なお品目によっては 銅山御用の商店を指定して納入を認めた。
かくて原価に対して運賃 手数料なと五分~八分を加算した安い価格て配給した。 各会貞は物品請求の時には通帳を持参して払込株金の限度で物品の配給を受けた。
各三養会の事業は採鉱課監督の下に 理事長一人 理事十数人~二十数人 監事二人~三人が行った。理事、監事の多数は頭役から選ばれ、所員(職員)選出の理事、 監事一人~二人を加えて組織された。
三養会 渡良瀬売店 2016年 8月撮影 営業中 建物に隣接する形で三養会本部がある
渡良瀬売店の内部
なんとなく昭和のスーパーマーケットの雰囲気がある
もちろん足尾羊羹もある。 2011年に深沢の売店が火事で焼失してしまったことから、火は使えないらしい。
三養会事務員給料、雑夫賃金・手当や臨時建築費は鉱業所の補助金て賄われていたが、 大正七年九月からは三養会雑夫は採鉱課雑夫となり 三養会事務員給料は八月から鉱業所負担となるなど、人件費は鉱業所の丸抱えであった。 以後鉱業所の援助のもとに次第にその基礎を囲め 内容の充実を図ってきた。 後に 工作や製錬所にも三養会が出来て、 独立組合が五カ所を数えた。 やがて五購買組合合同の声が起こり その機運が熟して 昭和六年四月十四日、産業組合法による有限責任足尾銅山購買組合「三養会」が生れた。 それをきっかけに 従来の貨下げの十四配給所を三養会に統合した。 ここに従来の倉庫制度が廃止され 倉庫品は三養会内で日を決め、別に配給されるようになった。
通洞から少し南、中才社宅入口付近にある生協中才売店 2016 8月 建物のみ 1999年に近くに訪れたときも開いていなかった。
・三養会の活気
前述のように昭和六年四月に足尾銅山購買組合「三養会」が誕生したが 当時の本山売店(本山三養
会)の様子を関係者からお聞きした内容・・
五日目ごとに 米の引き日(配給口)があったが当日は振った。 米価は会社から米価補給金が支給さ
れたので、いつも一定価格(一升二十五銭)が保たれていた。 ある家では 父七合 母四合 三人の子
供三合ずつ九合の五日分の合計が一斗(十升)であり 毎回米一斗が配給された。 当日は早目に 配給
通帳を三養会の受付場所に提出して置き、時間をおいて米袋を持参して 提出順に配給を受ける。・・
「元来 経済生活というものは物と金の両方面から見えなければなりません。 例えばここに同じ日給一円五十銭の者二人あったとしても一人は米を二十五銭で買い、一人は三十五銭でなければ手に入らなしとすれば この二人の実際の収入は相当の開きがあるわけです。 この点で我々足尾の従業員は全く恵まれているわけで 事実 足尾だけは別天地の感があります。 ところが会員の中には この事情を充分知らなかったり あるいは反対に 三養会は安いのだからそれたけ物が悪いのだろうなとと考える人も中にはあるようです。 ご参考まてに どれほと値段の開きがあるか表を見ましょう。」
昭和十四年の「鉱夫の友」に掲載された「三養会の値段」から引用 *『鉱夫の友』は大正二年五月に第一号が足尾鉱業世所で発刊され全従業貝に無料で配布された月刊誌。 昭和十七年四月(第三三四号)まて続いた。
以上の数字はすへて 三養会の購買組合時代のものである。
・生活協同組合三養会
終戦後、日本民主化の波に乗って昭和二十五年九月、消費生活協同組合法(改定)が出来た。三養会もこの法に徒し、衣替えをした。現在の私どもは長年銅山生協とか三養会と呼び慣れているが正式名株は足尾銅山生活協同組合三養会である。
生活協同組合法第九条に「組合はその行なう事業によってその組合員および会員に最大奉仕することを目的とし営利を目的として事業を行なってはならない」と規定している。
なお昭和三十六年六月に鉱業所から経営不振を理由に鉱業所から分離独立の提案がなされた。終戦後、古河財閥は解体され、超大企業としての能力は失われた。親企業としての人的経済的バックアップを失うに当たり、三養会は半年にわたる交渉の結果名実ともに完全独立 自主運営がなされるようになった。
昭和三十六年十一月に出来た「勤務心得」を見ると「・・・服装は職員の品性と教養を表わします。清潔かつ端正を旨とし、他に好感を与えるよう心掛けましょう。用語につしては親しみと礼儀をこめた語調を使いましょう・・ 基本的販売用語(五大用語)に慣れ次の言葉が習慣的に出るようになりましよう。 イ、あリがとうございます。 ロ、かしこまりました ハ、相すいません ニ、おそれいります ホ、お待たせいたしました・・ 」その他多くの心得が記載されており、こうしたサーヒス精神への努力は当然で 競争市場への必要な脱皮でもあった。
なお 職員の就業規則は最後の第七十二条に 「この規則の改廃は 労働組合と協議のうえ総代会の
承認を得て これを行なう」とあるのを見ても三養会が職域の生活協同組合てあることが分かる。
北部 旧深沢社宅入口にある、赤倉売店出張所。 2016 8月建物のみ。右と後ろに隣接する建物は社宅の共同浴場で現在も営業中?
赤倉売店出張所のすぐ北側に深沢売店があった。ここは2008年くらいまで営業していたらしい。なぜ隣接して売店があるのか不明だが、
先に営業をやめた赤倉売店出張所を補うためだろうか
その深沢売店も2011年に火事で焼失してしまい、今は更地になっている。向う側に共同浴場の赤い重油タンクの一部と、やはり今は更地になってしまった深沢社宅跡に建つ煉瓦の様なカラミの防火壁が見える
赤倉地区、古河橋近くにある 生協売店建物
酒販売店 となっている。 何時ごろから閉まっているのだろう 錆びたシャッターが物悲しい
ここからさらに北に、愛宕地区にも 生協売店があったが、現在は取り壊されてしまっているようだ。
なお、通洞と渡良瀬の売店については、 9月末に生活協同組合三養会が無くなっても、民間の業者が地域スーパーマーケットとして引き続き営業していくらしい。 他の営業していない売店の建物はいつかは無くなってしまうのか・・
(記事の説明文献は 続・足尾銅山の社会史 から引用させて頂きました)
しかし 坑夫や鉱夫が増え全国から商人たちも来山し足尾銅山が栄え 北部の赤倉、間藤方面や小滝方面の商店街が栄えるにつれて倉庫品目が次第に減ってきたことは既に述べた。
銅製造業の足尾鉱業所がいつまでも生活用品の調達 配給として商葉活動をすることは望ましいことではなかった。
鉱業所ではもっと鉱夫の生活に独立向上心を持たせるべきてあるという考えもあった。 鉱夫たちにとってももっと多くの日常必要品や商品を自由に購入したいという欲求があった。 銅山御用となって、生活の安定と商売繁盛を考える町の商人たちの思惑もあったに違いないし、そこで購買組合の設立という声が次第に強まってきていた。 こうして誕生した購買組合を足尾では「三養会」と後に名付けた。
・三養会の語源 中国の詩人 蘇東披「群談飴採」より
安分以養福 ->分(ぶん)に安んじ もって福を養う
寛胃以養気 ->胃を寛(ゆるやか)にして もって気を養う
省費以養材 ->費(ついえ)を省(はぶ)いて もって材を養う
「福」 「気」 「財」の三を養うという意味
三養会 通洞売店 2016年 8月撮影 営業中 通洞の銅山観光の近くにある
先ずその設立の時期を確かめたい。
足尾銅山購買組合本山三養会 明治四十一年(一九〇八)十一月二十三日
″ 小滝三養会 明治四十五年(一九一二) 七月 二日
″ 通洞三養会 大正元年(一九一二) 八月二十三日
三養会は米 味噌など三十五品目の倉庫て配給される品目以外の日用品を一括購入して、会員にに配給したり、販売する目的で出来た鉱夫の自治的な組織で会員が必ず一定の出資をし、その積立金の運営によって安くて品質のよい物資の配給を受けるための購買組合てある。
しかし 三養会は自治組徽とはいえ あくまでも鉱業所主導の組識で、採鉱課の監督下にあった。 足尾鉱業所が積極的に本山坑夫飯場組合に働きかけ、 飯場頭を通して組下の坑夫や鉱夫の理解を求め、彼等を株主(会員)として ここに本山購買組合を発足させている。 ただ当時は 購買組合とはいわずに購買会と呼んでいたことのみを付け加えたい。
通洞売店の内部 日用雑貨、生鮮食料品などが並んでいる。
・本山購買組合三養会
かくして 本山購買会は生れた。 続いて小滝や通洞にも購買会の誕生をみた なお 古河鉱業の好問鉱業所ではぐっと遅れて 大正六年二月 従来の倉庫貸下制度を廃止して購買会に改めた。 日光電気精銅所は創立当初(明治四十年)より貸下制度を置かず 購買会のみによっていたので、足尾よりは設立がやや早く 購買会では先輩であったといえよう。
足尾の購買組合は三養会と呼ばれていた 三養会は財、気、福の三徳を養うという意味で 中国の有名な詩人蘇東披の文章カら引用して 佐々木敏綱所長が名付けたといわれている。しかし 氏は大正十二年九月足尾鉱業所の副所長として来山し 昭和二年に所長になった方てある。 大正八年に古河鉱業株式会社がまとめた『古河鉱業 使用人一般状況』には既に 三養会の名和が使われているのて 恐らく命名者は設立当時の鉱業所長近藤陸三郎であるか 佐々木敏綱以前の所長てあったであろう。
三養会員は足尾鉱業所に勤務する 主として採鉱課鉱夫て株金を納入したものに限られ 株金は一株五円(ただし通洞は三円)とした。 取扱品目は倉庫配給品以外のもので 呉服太物類、食料品、器具類、小間物類、雑品なと多数あり 三方面の三養会が中央購入部を設け、専ら原産地より仕入れをした。 なお品目によっては 銅山御用の商店を指定して納入を認めた。
かくて原価に対して運賃 手数料なと五分~八分を加算した安い価格て配給した。 各会貞は物品請求の時には通帳を持参して払込株金の限度で物品の配給を受けた。
各三養会の事業は採鉱課監督の下に 理事長一人 理事十数人~二十数人 監事二人~三人が行った。理事、監事の多数は頭役から選ばれ、所員(職員)選出の理事、 監事一人~二人を加えて組織された。
三養会 渡良瀬売店 2016年 8月撮影 営業中 建物に隣接する形で三養会本部がある
渡良瀬売店の内部
なんとなく昭和のスーパーマーケットの雰囲気がある
もちろん足尾羊羹もある。 2011年に深沢の売店が火事で焼失してしまったことから、火は使えないらしい。
三養会事務員給料、雑夫賃金・手当や臨時建築費は鉱業所の補助金て賄われていたが、 大正七年九月からは三養会雑夫は採鉱課雑夫となり 三養会事務員給料は八月から鉱業所負担となるなど、人件費は鉱業所の丸抱えであった。 以後鉱業所の援助のもとに次第にその基礎を囲め 内容の充実を図ってきた。 後に 工作や製錬所にも三養会が出来て、 独立組合が五カ所を数えた。 やがて五購買組合合同の声が起こり その機運が熟して 昭和六年四月十四日、産業組合法による有限責任足尾銅山購買組合「三養会」が生れた。 それをきっかけに 従来の貨下げの十四配給所を三養会に統合した。 ここに従来の倉庫制度が廃止され 倉庫品は三養会内で日を決め、別に配給されるようになった。
通洞から少し南、中才社宅入口付近にある生協中才売店 2016 8月 建物のみ 1999年に近くに訪れたときも開いていなかった。
・三養会の活気
前述のように昭和六年四月に足尾銅山購買組合「三養会」が誕生したが 当時の本山売店(本山三養
会)の様子を関係者からお聞きした内容・・
五日目ごとに 米の引き日(配給口)があったが当日は振った。 米価は会社から米価補給金が支給さ
れたので、いつも一定価格(一升二十五銭)が保たれていた。 ある家では 父七合 母四合 三人の子
供三合ずつ九合の五日分の合計が一斗(十升)であり 毎回米一斗が配給された。 当日は早目に 配給
通帳を三養会の受付場所に提出して置き、時間をおいて米袋を持参して 提出順に配給を受ける。・・
「元来 経済生活というものは物と金の両方面から見えなければなりません。 例えばここに同じ日給一円五十銭の者二人あったとしても一人は米を二十五銭で買い、一人は三十五銭でなければ手に入らなしとすれば この二人の実際の収入は相当の開きがあるわけです。 この点で我々足尾の従業員は全く恵まれているわけで 事実 足尾だけは別天地の感があります。 ところが会員の中には この事情を充分知らなかったり あるいは反対に 三養会は安いのだからそれたけ物が悪いのだろうなとと考える人も中にはあるようです。 ご参考まてに どれほと値段の開きがあるか表を見ましょう。」
昭和十四年の「鉱夫の友」に掲載された「三養会の値段」から引用 *『鉱夫の友』は大正二年五月に第一号が足尾鉱業世所で発刊され全従業貝に無料で配布された月刊誌。 昭和十七年四月(第三三四号)まて続いた。
以上の数字はすへて 三養会の購買組合時代のものである。
・生活協同組合三養会
終戦後、日本民主化の波に乗って昭和二十五年九月、消費生活協同組合法(改定)が出来た。三養会もこの法に徒し、衣替えをした。現在の私どもは長年銅山生協とか三養会と呼び慣れているが正式名株は足尾銅山生活協同組合三養会である。
生活協同組合法第九条に「組合はその行なう事業によってその組合員および会員に最大奉仕することを目的とし営利を目的として事業を行なってはならない」と規定している。
なお昭和三十六年六月に鉱業所から経営不振を理由に鉱業所から分離独立の提案がなされた。終戦後、古河財閥は解体され、超大企業としての能力は失われた。親企業としての人的経済的バックアップを失うに当たり、三養会は半年にわたる交渉の結果名実ともに完全独立 自主運営がなされるようになった。
昭和三十六年十一月に出来た「勤務心得」を見ると「・・・服装は職員の品性と教養を表わします。清潔かつ端正を旨とし、他に好感を与えるよう心掛けましょう。用語につしては親しみと礼儀をこめた語調を使いましょう・・ 基本的販売用語(五大用語)に慣れ次の言葉が習慣的に出るようになりましよう。 イ、あリがとうございます。 ロ、かしこまりました ハ、相すいません ニ、おそれいります ホ、お待たせいたしました・・ 」その他多くの心得が記載されており、こうしたサーヒス精神への努力は当然で 競争市場への必要な脱皮でもあった。
なお 職員の就業規則は最後の第七十二条に 「この規則の改廃は 労働組合と協議のうえ総代会の
承認を得て これを行なう」とあるのを見ても三養会が職域の生活協同組合てあることが分かる。
北部 旧深沢社宅入口にある、赤倉売店出張所。 2016 8月建物のみ。右と後ろに隣接する建物は社宅の共同浴場で現在も営業中?
赤倉売店出張所のすぐ北側に深沢売店があった。ここは2008年くらいまで営業していたらしい。なぜ隣接して売店があるのか不明だが、
先に営業をやめた赤倉売店出張所を補うためだろうか
その深沢売店も2011年に火事で焼失してしまい、今は更地になっている。向う側に共同浴場の赤い重油タンクの一部と、やはり今は更地になってしまった深沢社宅跡に建つ煉瓦の様なカラミの防火壁が見える
赤倉地区、古河橋近くにある 生協売店建物
酒販売店 となっている。 何時ごろから閉まっているのだろう 錆びたシャッターが物悲しい
ここからさらに北に、愛宕地区にも 生協売店があったが、現在は取り壊されてしまっているようだ。
なお、通洞と渡良瀬の売店については、 9月末に生活協同組合三養会が無くなっても、民間の業者が地域スーパーマーケットとして引き続き営業していくらしい。 他の営業していない売店の建物はいつかは無くなってしまうのか・・
(記事の説明文献は 続・足尾銅山の社会史 から引用させて頂きました)
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