徒然なる写真日記

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宇都宮戦跡巡り~ 旧陸軍宇都宮師管区地下司令部跡

2016-07-12 00:45:44 | 自衛隊基地祭他ミリタリー関連
2016 5/21 ピースバスに参加

今日7/12は 71年前の太平洋戦争末期の昭和20年、陸軍師団司令部があり多くの軍事施設や疎開してきた軍需工場などが集積していた
宇都宮の街が、米軍B29の133機の編隊による大空襲を受け、市街の約6割が廃墟に帰し、犠牲者は620名以上を数えた日ということだ。

この空襲の惨状を決して忘れず、後世に語り継ぎ、戦争の非情さ愚かさと平和の願いを伝えるため活動されている市民団体"ピース宇都宮”さん
のピースバスツアーに去る 5/21に初めて参加した。 この日は宇都宮の西部地区の「軍都や戦争の痕跡」をたどるバスツアーであった。

最初に 八幡山競輪場入口の近く、ひょうたん池の西の丘陵地帯にある、旧陸軍宇都宮師管区地下司令部跡へ

その前にバスの中で興味深い話を聞いた。戦時中の古い県庁の建物は縦に黒い迷彩色が施されていたという。県庁裏に防空壕があり、西側から掘ったという。現在、県庁の北東?にトンネルがあり道路がつながっているが、かつてみくら山古墳があったところの下を掘り進んでトンネルは開通したらしいが、もとは防空壕の1部だったらしい。

さて旧陸軍宇都宮師管区地下司令部跡 であるが、昭和60年から調査が始まり、戦後は単に防空壕と思われていたらしいが、司令部跡であったことが判明した。

昨年、戦後70年ということで内部を一般公開したらしいが、現在は崩落の危険性もあり内部は見学できない
この入口は下の見取地図でBライン41.9mと期された場所


(以下頂いた資料より)
溝造は山の尾根に添うかたちで南北に主線壕(364.6m)が延びており、そこに山の東西から9本の支線壕が直結している。
支線壕の長さほ最短が25.0m、最長が49.6mで、総延長は356.5mである。地下壊への入り口は11か所あり、
壕断面は幅2m、高さ2mのかまぼこ型で壕内には泌水を排水するため壕中央部から出入り口に向かって下る構造となっていて、
そのための側溝が両側に掘られている。支線壕には5か所の部屋(24㎡内外)が確認されている。




説明標柱


もう1つの入口に向かう


こちらは南端Aラインの入口


内部には合計5つの部屋があり・・ 北端は 昔、小学生の頃よくゴーカートに乗った交通公園の1番高いところまで緩やかに登っているらしい



このような戦跡が市のほぼ中心部にいまだに残っていることを見学して初めて知った

(以下資料より)
旧陸軍宇都宮師管区地下司令部跡

昭和19(1944)年7月のサイパン島陥落、10月のレイテ決戦の敗北で、戦局は著しく悪化した。20年1月になると大本営は、
米軍の本土上陸に備え内地防衛軍を組織し、朝鮮を含む地域を7軍菅区に分け、抗戦準備を進めた。当初、関東地区は
第12方面軍・東部軍管区の管韓下に置かれたが、4月に編成替えとなって第1総軍・第2二総軍・航空総軍に再編され、
第12方面軍は第1総軍の隷下となった。東部軍菅区の下には東京・宇都宮・長野の3師管区が有って、    
宇都宮師管区は栃木・茨域・群馬の3県を範囲としたが、県単位に連隊区が置かれ東部36(宇都宮)・37(水戸)・38(高崎)部隊などがあった。
方面軍司令官と軍管区司令は兼任されたものの、作戦を担当する方面軍司令部と徴兵などの軍政を担当する軍管区司令部の2本建てとして
本土決戦体制を強化しようとした。師管区司令部は動員・教育・警備などの後方支援を主任務とし、徴兵による入営者の初期訓練から部隊への
配属を行っていた。
 宇都宮師管区司令部は、旧第14師団司令部(現国立栃木病院)施設を利用していたが、空襲の被災を避けるだけでなく、
来るべき地上戦も想定して八幡山に地下施設の建設を急いだ。

地下司令部の建設は、昭和20年6月から24時間3交代制の突貫工事で進められた。
作業に当たったのは東部36(字蔵宮)・37〈水戸)・38(高崎)部隊から集められた歩兵3個中隊11個小隊と
水戸から派遣されてきた工兵(同42部隊)で 総数は240~250名ほどであったという。ほとんどが凝灰岩と泥岩から形成さ
れていたため 工兵が発破を仕掛けた後に歩兵がつるはしで堀り進んだという。付近には堀削当時の砕石が大量に残存している。

終戦時には未完成であったが、その後も作業が続けられすべての壕の貫通を待って作業は中止されたという。
八幡山は市の中央部に近く、東と南に平地を望むために、山上には高射砲陣地が設けられ地下の司令部と併せて、山全体が要塞化していた



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