【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その7

2020年03月15日 21時39分39秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。


【13 天野三郎=本名軍事郵便による手紙】

P.245
13 天野三郎軍事郵便(手紙)

所属:歩兵第65連隊>第三大隊>第9中隊・第3次補充
階級:少尉

 【「12月2日」門司消印】
《11月24日》 「ぱしふぃっく丸」病院船乗船。

 【「12月4日」宇品消印】
《11月26日》 呉淞沖碇泊。洋上に沈む夕陽の荘厳さに心打たれる。戦争という殺し合いのことを思う。

 【「12月4日」宇品消印】
《11月28日》
上陸。埠頭見学破壊の跡もの凄く。戦場の日本のラジオ報道へ支那側が妨害電波を出して邪魔をしているという噂がある。

《12月01日》
昨日民報の箭内記者と面談。第一線の様子を若干知る。

《12月02日》
昨日の出発が本日出発。常熟北岸に上陸。

《12月12日》
上陸以来40里(約160km)余りを行軍。鎭江入城。戦闘らしきものは無い。去る12月6日に第65連隊第三大隊第九中隊第三小隊長を拝命。小隊は含めて27名以下になっていると聞く。激戦の悲惨さを推察される。(*2)

《12月14日》
65連隊は幕府山砲台占領と残敵掃討中。一部は南京入城式に参加、残りの主力は2万にのぼる捕虜の監視。食糧の補給も不十分で1週間も水も米を取る事もない支那兵が相当数になる。22日には江北(浦口)へ渡航。敗残兵が寝台の陰に隠れていたのが発覚し、射殺。

《12月17日》
収容されている捕虜から善処を願う為の手紙を渡される。投降軍臨時代表 釜核の署名がある。【内容は、武装解除をし、投降してから3日経ち、食糧ほぼ無く餓死者を出しかねないので、ご恩を頂けるのなら服従し故郷に帰り二度と刃向かう事がないように努めます。】 捕虜移動の為多忙。途上逃亡者は射殺。今銃声がしたので同様か。

下関碼頭より全滁県を目指し渡河予定。南京城は防衛陣地堅固を無抵抗で放棄した支那軍の無力に一抹の同情を感じる。南京は空爆が幾度か行われたと聞くが大して破壊されていない事に不思議に感じる

《12月23日》
連隊は中山碼頭より渡河。全滁県の警備治安維持の任に就く。人口3万の街ですが、住民は南京の避難民が入りこんでいる模様。住民の全てが蒋介石を恨んでおる様子早く日本が治めるようになればよいなどと言う支那人も居る。排日は江南で激しく江北では殆ど見ない。小学校の壁の図は排日事項が一杯掲示されている。教育を受けた子供たちが将来日支に禍をもたらす可能性を感じ暗澹たる気になる。【12、13才の少年が何も知らず唯日本人を射殺せよと言われて戦線に立ち、婦女も又同様に第一線に立って居るのを見ると日本内地の人々は皆幸福です。南京附近の戦闘の際多数の子供が敵軍に交り勇敢にも第一線に立っているのを見ると憎さも憎いが敵ながらと思われました。】

 【日付記述】
11月29日 午前10時上陸。支那人経営の紡績会社に3泊、宿営。
12月02日 午後6時、滸浦鎮着。船による夜間行軍。梅李鎮着。銃声数発を聞く。
        午前中に支那空軍による空爆有と聞く。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 午後4時、常熟着。途上敵の遺棄死体と友軍馬の累々の遺体を見る。
12月04日 午後8時、無錫着。前日と同じ光景。砲撃と空爆により満足な人家僅。住民の姿無く。
        敗残兵による流弾があり危険。

12月05日 午後10時無錫発、連隊の前線に追求合流。
12月07日 前日既に陥落した鎮江城入城。
      小高い丘に米大使館あり国旗が翻っている【憎しみの感情湧く】
      午前11時鎮江発、南京へ行軍。途中の町やは全て支那軍退却の略奪が行われた跡が
      歴然としている。

12月14日 午前4時半より幕府山砲台攻略開始。他の大隊が後部の烏龍山砲台を占領。
     砲台約1里手前(約3.7km位)で敵と交戦。約1万5千を死傷させる戦力を無効化する。
     大量の兵器を鹵獲。
全滁県へ南京下関より渡航後2日の行程で現在地で宿営。
     敵影殆ど無し。住民比較的親日的



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、第3次補充と言う事ではあるが、鎮江手前で連隊前線と合流し、南京ヘ続く行軍戦に従軍している。ただ日記でもなく手紙が主体で他の資料と異なっている点がある。【一般人】が【大勢居た】ことも【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
敗戦国民の阿りと考えるが、親日的であるという《印象》は興味深い。

12月7日の鎮江城の小高い丘の上の米国大使館の姿を見て【憎しみの感情】を持ったようで、当時の日本人の米国観として悪い印象をもっているようで、この人物特有なのかよく判らないが興味深い。幕府山での手前で敵兵交戦をしていると書かれている。鎮江の近郊の悲惨な町や村の状況を日本軍ではなく、支那軍の敗走退却時の略奪としている所も興味深い。12月17日の幕府山山麓に収容された【捕虜】の【嘆願】は痛ましいが、その後の経過は記述が無く、16日の火事の記載もなく、どういう経緯で捕虜が移動しているかも不明である。ただ、文中には移動中での不測の事態のように受け取れる文面である。このような【嘆願】したような【捕虜】を【計画的】に【全員】を【殺害】したというのなら【人でなし】という【批判】はまのがれないが、この人物の後の記述を見ても、差ほど印象の無い点を見れば【逃走発砲という事故説】の印象を持つが、実際には【情報】がこれでは【少なすぎて】判らない。
この人物は小野賢二氏の資料の中では数少ない【実名】あり、【資料】の性質としては他の【偽名】の人物よりは【蓋然性】は【高い】と考えられる。


国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*3)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この天野という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。

引用 チャールズ・メイヤー(*4)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

この天野の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。揚子江付近を進軍しているにも関わらず、存在すら気にも止められなかったし、話題にものぼらなかったようである。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)日本陸軍は4個分隊で約50名で構成となる。
【Link】
(*3)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*4)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 



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