【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その23

2020年08月19日 20時05分16秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】とは、主に【城外】に【崇善堂】の埋葬記録などから、各村落の合算をすると大量の【非戦闘員】が居て、それが戦場における日本軍の不軍紀且つ国際法の陸戦に関する【条約】の【陸戦法規】に違反する不当行為による【殺害】で、しかも【大量殺害】を犯したという主張である。
この馬鹿げた主張に反論する前に、情報収集として城外に【大量の非戦闘員が特定エリアに集結又は分散的に居た】のかという記録がないかを目的に次の戦闘詳報を調べた結果の一つである。

調べた戦闘詳報は、
  山砲兵第9連隊 第一大隊 【9月〜12月】(*1)

今回は第9師団関連の【山砲兵第9連隊 第一大隊】という第9師団隷下第6旅団隷下の部隊の【戦闘詳報】から見てみたまとめである。この山砲第9連隊は、第6旅団に属し、同旅団第35連隊等に協力し、淳化鎮から光華門・紫金山と扇形に展開して要地を攻略している。
結論からみると進軍路程の無錫=>武進(常州)=>金檀城=>土橋鎮を経て、淳化鎮より西側に広がる南京城までの山丘と盆地面に関して【民間人(非戦闘員)】が【蝟集】していたという【痕跡】【形跡】を【戦闘詳報】からは読み解くことが出来なかった。戦闘詳報中に淳化鎮からその南京のエリアには、ほぼ要塞化された陣地が構築されていて、激しい戦闘があり、そのような地域で【民間人(非戦闘員)】が【蝟集】していたのであれば、当然ながら双方の【戦闘行為】により多数が戦死傷していたことはまちがいないが、今回の戦闘詳報には、【民間人(非戦闘員)】が逃げ惑うような記録はいっさい存在しない。


〈12月7日 【C13070271000】 15頁 0879 戦闘経過要図〉

この山砲兵第9連隊 第一大隊の【戦闘詳報】は、上海戦より通して残っているので戦史を知る上では重要な史料と考えられる。
この記事の論旨に該当する崇善堂の埋葬記録は、一部【紫金山】エリアでかぶるが、淳化鎮周辺の青龍山山丘周辺は激戦地の要塞であり、多数の中国人兵卒が死んでいるはずであるが、基本的に埋葬活動の実績の記載の【無い】エリアである。なぜ、ここが漏れ落ちたのかいっさい不明である。
注意を要する点としては、上海戦以降で、蘇州占領時あたりから度々【参謀長(師団)注意・旅団長注意・大隊長注意】として、無錫城攻略以降に11月27日から12月の始めまで【良民保護】【外国権益建築物物品保護】と、【良民(土民)殺戮、家屋放火、徴発と略奪を混同への禁止厳命】と【処罰】も含む戒告のような【注意】がなされている。
山砲兵団の動きは、12月2日には卜戈鎮に着陣し、12月6日には土橋鎮の西の淳化鎮手前の索野鎮に着いているので、相当な速さで進軍していることがわかる。
11月27日から12月6日で100km近い行程を妨害工作物(防護柵や地雷、橋の破壊)や雨天による泥道、クリーク(自然の堀)などを超えて所要日数は9日程で到達している。
ただ淳化鎮以降から南京占領直前までは、そのような【注意事項】はなくなって、理由としては進軍速度と戦闘が激化してきて戦闘中心の記載となっている。


(無錫の南西にある雪堰橋鎮から句容の西にある淳化鎮)

念のためもう一度書いて置くが、南京事件FQAサイトのこの【3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】記事の次の【主張】に対する反論である。
該当サイトの【記事】の主旨は、主に【城外】に【崇善堂】の埋葬記録などから、大量の【非戦闘員】が居て、それが戦場における日本軍の不軍紀且つ国際法の陸戦に関する条約の【陸戦法規】に違反する不当行為により殺害で、しかも大量殺害を犯したという主張である。
その根拠としては主に【崇善堂】の【埋葬記録】などである。それ以外にも周辺での【避難】せずに、又は家族の都合などで、村落の大部分の【一般住民が取り残されていた】ものを、【戦闘】及び【徴発の際】などでの日本軍の不当行為で【殺害】したという【主張】である。
これへの反論としてこの【分析】を書いている。誤解のないようにお願いする。
範囲としては、【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】である12月3、4日以降の範囲に限定する。でなければ前にも後ろにも収拾がつかず論的に判断できないからである。
それと、【歴史】を調べる上で、【第一次史料】はとても重要であり、当時を【知る】という意味では、【最重要】な【史料】ではあるのは言う間でもない。ただ、【精査】という【史料批判】は必要なものである。
【戦闘詳報】は、リアルタイムで記述されるものでは無く、戦況によって変化する中で、担当者の置かれた状況次第で、後日に書かれることになり、記憶や連絡メモなどを参考に記載される。書いた時での記憶の忘失・誤記憶、連絡メモなどは紛失なども状況に依ってはあり得るので、【記憶】【推測】【想像】による【記載】になることがある。それはいわゆる【蓋然性が低い】と言うことに外ならない。
【淳化鎮】は、南京城東南方向の青龍山山系(大城山山系)から起伏のある丘の裾野の盆地帯で、各地山腹等に防衛陣地(掩蓋壕やトーチカ、鹿砦(木製の柵)、鉄条網、地雷帯など)が厳重・重層的に構築されている要塞地帯である。無錫からは蒋介石が造った用水路網を徴発した民間船を使用し、金檀城とその先の薜埠鎮へ進軍ができ、移動速度が増しているが、その後陸路の行軍となり、句容のほぼ西にある土橋鎮から淳化鎮手前で敵軍との本格的な交戦で進軍速度は落ちている。
なお、丹陽城・金檀城を焼き払っているという情報が当時の上位の上海派遣軍参謀長の飯沼守日記(*2)に記載されている。
そして、該当サイトが根拠としている【崇善堂】の埋葬記録には、このエリアでの埋葬記録は、【該当箇所】が無い。

 

【分析・考察】


南京城周辺は、防衛地帯であり、トーチカ・掩蓋壕・鉄条網・鹿砦・地雷などが多数埋設されていて、かなり行動が制限されている。
その中で、【民間人(非戦闘員)】が分割して大中小と蝟集しているということは、なかなか想定しにくい上、戦闘詳報類にも南京城周辺に於の【民間人(非戦闘員)】の姿を視認したことは書かれていない。
無錫や武進(常州)周辺で、他の師団である16師団20連隊の保坂軍医や牧原信夫の【日記】にあるような【民間人(非戦闘員)】を殺害したと言う記載がある事は確かだが、それがどういう前提であったかは判明しておらず、第九師団や山砲兵団で進軍上で度々出される事となった【注意事項】は、淳化鎮以降は戦況の激化に伴い戦闘一色になり【無くなっている】。
何度も繰り返しになるが、山砲兵第9連隊の戦闘詳報は、【紫金山山麓】や【光華門】という【要塞・要害】へ続く【敵】重要拠点を攻略した記録であり、【民間人(非戦闘員)】がいることは考えにくい。実際にいたとしても【戦闘行為】と【それ以外の殺害行為】を明確に分ける実証することは不可能である。しかも大なり小なりの人数の【民間人(非戦闘員)】が【陣地内】に【避難・蝟集】していたと【証明】するような【記述】も見られない。地雷や鉄条網で囲まれた要塞・防衛陣地内に居て、戦闘に巻き込まれ被災していたとしても【戦争行為】の双方攻撃の一環であり、日本軍に何等問題があった行為とは認識は出来ない。
又、上述しているように上海派遣軍の参謀本部には【堅壁清野作戦】という一応の中国軍使用以外の建物への破壊と焼却が報告されている。この金檀城攻略以降にも【良民殺害厳禁】の注意事項が出されているが、実際の行動が【誰】による【行為】かは【明確】ではない。
通常では地元民保護はすると考えるが、ラーべの日記(*3)にも見られるように中国軍にそのような【民間人(非戦闘員)】の意図は見られない。南京城周辺も12月7日以降に日本軍の行動に利用されることを想定した建造物の焼却・破壊を行なっている(当然ながら中国軍の利用目的上の村落への焼却はなされていない)し、翌年には、黄河決壊作戦や長沙焼却作戦などというものがあり、地元民保護を行う思考が存在していない。


〈堅壁清野作戦エリア 12月7日〜12日〉

地元民と記述したのは、当時の中国大陸では中華民国が国家として存立していたわけではなく、中華民国、地方勢力軍閥、中国共産党という異なる勢力が絡んでいるので日本国と抗争している間でも互いに抗争しているので、国民国家として国民保護という観点が存在していないためである。地元民といえど敵対勢力圏の人間は敵になるからである。例えば、蒋介石軍は第四軍という中国共産党軍(ゲリラ)に対して後に攻撃を加えている。
しかも、蒋介石の率いる中華民国も民主的な体制ではなく、軍事独裁者として蒋介石の家族血縁軍閥組織というファシズム体制である故に地元民への保護などはなされていない。このことは南京での民間人(非戦闘員)避難をまず第一に考えず、推定20万を超える【民間人(非戦闘員)】を戦闘区域内に残置したということなどからも裏付られる。
話を戻すと、【民間人(非戦闘員)】への殺害行為を師団は日本軍兵士の行為と判断しているが、その行為を補完する様な【史料】としては今の所、他の部隊である第16師団20連隊の第3大隊の軍医である保坂晃日記や同連隊の第3機関銃中隊員である牧原信夫上等兵の陣中日記(教えてゲンさんサイト参照)があるものの、山砲兵団の進路における【事例】がどうであったかは確認できない。
ちなみに、一兵士や軍医が【民間人(非戦闘員)】を【殺害】を認識して、【可哀想】という【憐憫の感情】を抱いていた事は、確かであるがそれらがどういう【条件】の下で行われたのかは、日記からだけではわからない。事実として【戦闘行為を行っていない民間人(非戦闘員)殺害】あったのかどうかだが、異なる師団で同様のケースが行われるにはそれなりの理由があると考えてしかるべきである。(非戦闘員とは、身分の事で兵卒と異なる身分の名称としている。戦闘行為を行ったとしても非戦闘員である。民間人も同じ用語である。)
1996年に結成された【新しい歴史教科書をつくる会】(*4)の登場に危機感を抱いた当時小学校の教師だった松岡環女史(*5)が、第16師団の33連隊を中心に収集した証言があるが、その中にも【武進】周辺での保坂晃氏や牧原信夫氏の書いた様な証言が多数あるわけではない(ただ当然ながら戦後の時間を経た【証言】はあくまで参考程度、史料としての信頼性・信用性は極めて低い史料である)。南京城攻略が中心という理由もあると考えるが、加害史観にどっぷりと染まった人物の書籍にもほぼ見られない。
後述するが、仮にそのような非戦闘員への殺害が起こったのであれば、師団参謀長・連隊長・大隊長などの各命令後に添付された【注意事項】が多数なされていることからも、【軍規の弛緩】などと言う話とは異なる事態が起こったのではないかと考える。とはいえ、行程上に存在していた宿営等した、又は周辺の村落を悉く全て纏まった蝟集民間人(非戦闘員)を襲撃して殺害を行ったという【記録】はどこにも見られない。当時の軍の行動は速やかな南京攻略で、【敵部隊】でもない各村落襲撃し【殺害】をしている時間と労力があるならば進軍と徴発(食料収集)に使われている。【南京大虐殺】を主張される大学教授や研究者達の主張でも、日本軍は各部隊が南京城攻略一番乗りを目指して、我先に【進軍】していると分析されていると同様に、もたもたと宿営や周辺の村落を襲撃して【民間人(非戦闘員)】を殺害して回っている余裕は見られない。つまりあり得ないということである。

一応、無錫城攻略以降に次のような【注意事項】が各師団・連隊・大隊命令に添付されているので掲載しておく。

 

〈9月28日 【C1111847400】35頁 1112 宿営に関する注意事項 上海兵站司令部 船上〉

 



〈11月19日 【C13070270500】22頁 0735/0736 旅団長注意事項 第九師団第六旅団 蘇州城〉

 


〈11月20日 【C13070270500】32頁 0746 連隊長注意事項 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 


〈11月20日 【C13070270500】33頁 0747 連隊長注意事項 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 



〈11月20日 【C13070270500】36頁 0750 連隊長注意事項 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 


〈11月23日 【C13070270600】6頁 0768 連隊会報 山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 


〈11月26日 【C13070270600】19頁 0781/0782 連隊長注意 山砲兵第9連隊 雷家鎮〉

 


〈11月27日 【C13070270600】28頁 0790 連隊長注意 山砲兵第9連隊 雷家鎮〉

 


〈11月27日 【C13070270600】30頁 0792 連隊長注意 山砲兵第9連隊 蘇州城〉




〈11月29日 【C13070270600】39頁 0801 師団参謀長注意 第九師団 雪堰鎮〉

 


〈11月29日 【C13070270600】41頁 0804 師団参謀長注意 第九師団 雪堰鎮〉

 


〈12月2日 【C13070270900】13頁 0830 大隊長注意 山砲兵第9連隊第一大隊 卜戈鎮〉

 


〈12月12日 【C13070271000】31頁 0948 同日会報 上軍会報抜粋 南京城下工兵学校付近〉

 

注意事項を並べてみると、11月27日以降から29日の先行追撃部隊が無錫を出発して太湖の北側の線に沿って雪堰橋鎮(無錫の南東)へ進軍途中で通達が増えている。
最初に注意事項が出たのは、11月19日で、【略奪】への注意であった。蘇州城入場に関し事前の注意だったと考えられる。
良民に対しても必要以上の寛容は必要ないが、適宜宣撫するように指示している。
11月20日の連隊長注意で行為としての【略奪】が出現しているが、側聞(伝聞)という噂レベルの話である。後に書くが【徴発】に関する【通貨】【言葉の壁】の問題もあったのではないかと考える。
その連隊長注意に、初めて【良民】と【敗残兵】を区別するようにという言葉が出てくる。戦場の緊張の中で、当初から想定せねばならなかった【便衣隊】を考えると、区別に関して各小隊では相当難しい対応を迫られたと考える。
この日には、兵士に対して盗難の疑いをかけ始めて所持品検査を開始している。
命を掛けて戦う兵士達にとっては情けない話であったと想像する。
11月26日には、連隊レベルで【良民保護】への注意事項が出されている。
11月27日に、【家屋放火、良民殺戮】への【禁止厳命】があるが、数々の注意事項から関して【行動】が【軍命】にそむけない日本の兵卒の行動としては違和感を感じる。
しかも、具体的な事例は記載されていない。
後手を縛られている【遺体】についても記載されているが、何故そのような【遺体】があるのか非常に気になる点である。
11月29日は、師団からの注意として【家屋放火】を行ったものに対して【厳重処分】を警告しているにも関わらず、帯同する師団本部の近くで度々の注意に対して堂々と反抗的行為をつづけるという事は考えにくい。
師団は、良民保護を厳命しているが、実動部隊の中隊・小隊・分隊の兵士レベルからすれば、良民の【敵意】を測る尺度は存在しないし、スパイ行動を見逃す訳にもいかないはずである。又、村落の住民自体が【反抗的】と判断し得れば、当然ながら【殲滅】という事にも繋がり得る。後述するが【便衣隊】の存在も考慮に入れなければならない状況であり、個々の部隊の判断によるものと考えられる。
場所的には、無錫から南西に向かった雪堰橋鎮であり、ナチスの軍事顧問団が作ったゼートクラインの防衛ライン上に位置している。
11月29日以降は、注意事項が減るのは、戦闘の激化もありえるが、【民間人(非戦闘員)】が宿営地を含め蝟集していなかったと考えられる。

 


〈9月28日 【C1111847400】32頁 1109 宿営に関する注意事項 上海兵站司令部 船上〉

で、【便衣隊】の名称が使われている事から、日本軍は当時中国軍が【陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約】および付属の【陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則】(*6)を破っていると認識していたという事でもある。又、良民と敵敗残兵との区別や、良民の【敵意】を測る方法等難しい判断が各部隊の兵士に求められていたと考えられる。
【戦時国際法】は、【条約】という【協定】なので、一方が【遵守】しなければ、敵対国のみが【義務】に【拘束】されるものではないとも考えられる。
当時の日本軍が、国際法に関する教育を兵士に施さなかったと批判する研究者も存在するが、どちらかというと中国側や南京につめていた宣教師・メディア等を含む欧米人達も又国際法を理解していなかったと考えるべきである。

 


〈11月21日 【C13070270500】40頁 0754 大隊長命令 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊第一大隊 蘇州城〉

清掃に関する記述が見られるが、この辺は現在の日本人と変わりない清潔好きな民族性がうかがえる。

 


〈11月22日 【C13070270500】46頁 0760 連隊長命令 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

当時の敵兵の遺体も埋葬していたというのは、進軍中でもやっていた事というのは驚きである。

 


〈11月21日 【C13070270500】47頁 0761 第九師団参謀長注意事項 第九師団〉

における【支那通貨】を経理部で回収という命令が出ているが、このことが徴発と略奪が混同される原因の一つであったのではないかと考えられる。又、日本軍兵士側は【法幣(*7)】は使わない。中国人側は【軍票】は【通貨】としての認識は持ち得ない。実際の交渉時に【使える・使えない】という【言葉の不通】も伴ってトラブルになり攻撃し傷害と殺害に到るケースも【想像】出来ないわけではない。

 


〈11月23日 【C13070270600】6頁 0768 連隊会報 山砲兵第9連隊 蘇州城〉

における以降の【単独外出禁止】と【隊長の証明書所持】が為されている。単独行動に於ける敵軍・敵住民による拉致・殺害防止と兵卒の個人犯罪を防ぐ防止措置と考えられる。

 


〈11月25日 【C13070270600】13頁 0775 第九師団経理会報 第九師団 蘇州城〉

こまごまと、徴発を意識した細かい行動をとるように支持している。

 


〈12月12日 【C13070271000】24頁 0941 松井石根大将訓示 11月23日付 南京城下工兵学校付近〉


11月23日付けでだされていた松井石根大将の訓示が12月12日になって届くのはどうかと考えるが、それよりも前に注意事項が発せられている事を考えると各師団長レベルには伝えられていたのではないかと考える。

注意事項として、様々なレベルで【注意】がなされている事実がわかる点で面白く、山砲兵第9連隊第一大隊の【戦闘詳報】は貴重な【史料】である事がわかる。
たた、戦闘地帯の分析に於いては、16師団のように【民間人(非戦闘員)】の状況等を示していない事は、問題だったのではないかと考える。

 

【参考文献・参照】


(*1)山砲兵第9連隊第一大隊『支那事変参戦記』 アジア歴史資料センター 【レファレンスコード】は以下を参照してください。

【9月】
C11111847400
C11111847700
C11111847600
C11111847500
C11111847200
C11111847300
【10月】
C13070269700
C13070269600
C13070269500
C13070269400
C13070269300
C13070269200
C13070269100
C13070269000
C13070268900
C13070268800
【11月】
C13070270600
C13070270500
C13070270400
C13070270300
C13070270200
C13070270100
C13070269900
C13070270000
【12月】
C13070271000
C13070271100
C13070270900
C13070271300
C13070271200

(*2)偕行社『南京戦史 史料集Ⅰ』 P.201/9行目 「敵は丹陽、金檀を焼きつつあり」とある 飯沼守日記 11月30日(http://www.howitzer.jp/topics/index2.html)

(*3)ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴイッケルト編、平野卿子訳『南京の真実』講談社文庫 2000年9月13日刊)
P.85 1行目 引用《
12月6日
黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役にたてることができたのですぞ!」
 これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長の側近の高官ときている。ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか! なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ? 首になわをつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?》
(真実を知りたい-NO2 林 俊嶺)
当方ブロク記事参照→ https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/029d7260823477e7378f53eadbe3575d

(*4)【新しい歴史教科書をつくる会】 次のリンクを参照してください。 【サイト】  【wiki】

(*5)松岡環著『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて―元兵士102人の証言』2002年8月1日 社会評論社 【Amazon】

(*6)ハーグ陸戦条約 ウィキペディア参照 1907年第2回万国平和会議で改定。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されている【条約】のこと。【Link】

(*7)法幣 ウィキペディア参照 中華民国蒋介石政権により1935年11月3日の幣制改革によって政府系銀行が発行した銀行券(不換紙幣)を、中国の法定貨幣(Fiat Money)として流通させたものである【Link】



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