【幕府山の事案での時系列】(全て1937年12月)
14日 捕虜 14,777名鹵獲。
15日 本間少尉を南京へ派遣。誰かから何等かの命令又は支持を受ける。
16日 相田中佐を再度派遣。仮収容施設で火災。捕虜約3,000名を揚子江沿いの魚雷営で処刑。
第一大隊長と捕虜の処置について打ち合わせ。
17日 捕虜からの嘆願書(食糧と解放)。幕府山麓の船着き場へ移送。移送中又は到着後、殺害。
18日 部隊の一部を以て遺体の処理。
19日 部隊の一部を以て遺体の処理。
20日 南京の揚子江の対岸の浦口へ部隊移動。
次に、二つの《可能性》を提示紹介する。
単なる《可能性》である以上は、《事実》とは又異なる事はご諒承頂きたい。
【マルクス史観からの《可能性》】
15日に指示を仰ぐ、【殺害】の命令を受ける。《根拠は、角良晴少佐(松井石根大将専属副官)による長勇中将参謀本部2課長「ヤッチマエ」という証言と山田栴二支隊長日記による【皆殺せとのことなり】を元にしている。》
16日に処刑計画の手順と実行の予行演習として、魚雷営(魚雷艦発着と攻撃施設)で、3分の1の捕虜を処刑。
17日により広い場所である幕府山麓の船着き場に【鉄条網】で囲った処刑場を設営し、捕虜を連行し時刻としては夕刻に処刑。その夜から遺体を【焼く】または揚子江へ【遺棄】。証拠隠滅。
18日、19日に遺体を【焼く】又は揚子江へ【遺棄】。証拠隠滅。しかし、【遺体】を全て処理しきれず残留。
20日に軍命令で、部隊を移動。
*その他にもバリエーションはあるが、【命令又は指示】から【処刑】への動態は変わりがない。
【当方の示す《可能性》】
15日に指示を仰ぐ、【待機】の指示を受ける。山田支隊長嘆息し嘆きを記述。《上海派遣軍参謀部第3課(1937年12月17日付/捕虜・後方担当)の榊原主計少佐の指示、根拠:飯沼守上海派遣軍参謀長日記【付上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも】》
16日に失火は敵対行為とみなして、魚雷営で処刑。実数値不明ながら時間と担当部隊から勘案して、1,000を越えることはあり得ないと考えられる。多くても300〜500名程。尚、この【処刑】についても、【正当性】が無いと【マルクス史観】では結論づけているが、【陸戦法規】を含む【戦時国際法】では、【捕虜】は【お客様】ではなく、【服従】という【義務】が存在することは、【国際法】として認知されている。そう言った意味合いで、【不服従=敵対行為】として見られたと考えられるので、【処刑】は止む得無い行為であったと考えられる。又、これが17日の【捕虜集積所】での【暴発】に繋がると考えられる。
17日 幕府山麓の船着き場への捕虜を連行の目的は【解放】《根拠としては対岸の【草鞋州】への距離の短い【渡船場】を集積場所を選んだと言う事。》。前日の【処刑】により【嘆願書】の効果がなかったとパニックに陥って、集められた岸辺で暴発し、鎮圧したのがその状況であったと考えられる。
補足として、
山田栴二氏の日記による【皆殺せとのことなり】を単独で見ると、【命令】があったと認識してしまいがちだが、前後の文面を読むと、
【12月15日】の段階での記述で、
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す、
皆殺せとのことなり、
各隊食糧なく困却す
は、ワンセットであると考えると、
【待機】は、【食糧】がないので【殺す】を意味すると言う事としても捉えることが出来る。
飯沼参謀長の日記の記述では、16師団に【接収セシム】とあるが、それまでは【待機】と言う事になる。それが【何時】までになるかは不透明であることも勘案すべきである。
再度、16日に相田中佐を派遣するが、何等記述がない。空振りか前日の指示のままであると考えられる。
南京で、長勇参謀部第2課長が、【殺害】の指示を出したと言う【説】があるのは、【角良晴】という人物が戦後の【死の間際】の高齢の状況での【誤記憶】からの【情報】で、対象部隊も第6師団(当時下関にいなかった部隊)であり、下関に集積された12〜13万という場所違いの中国人に対する処遇の件で、証言内容は、事象が全く異なる【蓋然性が極めて低い】ものと考えられる。
多くの方が、この角良晴という人物の【証言】とそれに端を発した偕行社【南京戦史】の編集委員の一人である加登川幸太郎氏の勝手な【お詫び】に引きずられている【誤った認識】であると考えている。
当時の【史料】からは、【可能性】としては存在するが、第65連隊が【意図】を以て【故意】に【処刑】したと言う事を【蓋然性】が【高い】と示しているわけではない。
隷下の第65連隊長の両角大佐が戦後の回想に、軍(上海派遣軍か16師団か不明)から処置への督促が来ていると書いているが、これが【軍】による【処刑命令】の存在を示すという誤解を与える結果となっている。自身の戦時中に書いたとされるメモには【俘虜は解放を準備】とされているだけである。戦後の贖罪という社会的圧力から生まれた想像ではないかと考えられる。
12日の夜から13日に掛けて、上海派遣軍・16師団の両司令部が設置された紫金山の東麓の馬群より北の仙鶴門鎮附近で敵敗残兵約3千と見積もられる敵兵との熾烈な交戦があり、翌日14日に約7,000名が投降し【捕虜】となっている。この事を受けて、【軍(上海派遣軍か16師団か不明)から処置への督促が来ている】という両角氏の回想を支持する方も居るが、投降兵は捕虜として7,000名(戦闘見積もりの3千名より増えている。実数は過大とみなされ不明)となって、一旦15日に下麒麟門附近に収容し、その後17日へ南京へ護送したという情報もある(偕行社『南京戦史』 P.323 四 尭化門(仙鶴門)付近における歩三八第十中隊の捕虜収容と南京護送)。但しこの収容に関しては、戦後の証言によるもので、38連隊の戦闘詳報には【午後1時に武装を解除し南京へ護送せしものを示す】とあり、15日下麒麟門附近での収容と待機は書かれていないので、蓋然性が高いかというと【低い】と考えるべきである。
そこからわかるのは、単に【混乱】していると言うことであり、第65連隊への【指示】や【命令】が、その【混乱】の中でどうなったかは【正確】には判らないままである。
【嘆願書】などでの【帰順と命乞い】をしている【捕虜】に対しての【処刑】は、通常の人間ならば【戦時】であったとしても判断できない行為だと考える。余程の【シリアルキラー】でもないと【命令】を出来ない行為であり、大量の人数的にも【処刑】とその後の【始末】を考慮すると考えにくいというのが当方の【仮説】である。
以上、【幕府山事件】への考察の一助にして頂けると有難いです。
【参考史料・参考文献】
偕行社『南京戦史』『史料集Ⅰ』『史料集Ⅱ』 【Link】
歩兵第38連隊 南京城内戦闘詳報 第12号 昭和12年12月14日 レファレンスコード:C11111200500 【Link】
小戦例集第4輯(昭16年) 第四輯 第三十六 (砲兵) レファレンスコード:C19010189300 【Link】
小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
阿部輝郎著『南京の氷雨 虐殺の構造を追って』 教育書籍(1989年) 【Amazon】
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