【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その11

2020年03月24日 14時33分13秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。


【8[柳沼和也(=偽名)]陣中日記】

P.154
8[柳沼和也]陣中日記

所属:歩兵第65連隊>第二大隊>第7中隊・編成
階級:上等兵

10月02日 上海への渡航中。船中兵士達が食中毒。午後10頃敵機襲来。船同士の衝突がある。
10月03日 午後3時30分上海の虬江碼頭上陸。虬江碼頭前の病院前に休憩中周りを見渡すと
        付近の家屋は全て爆撃されている。2名の支那兵の遺体がある。第1大隊第2中隊の3名戦死。
        午後6時半発。夜間行軍。日本紡績会社宿営。23名の落伍者を出した部隊がある。

10月04日 給養。水道水は割合良い。
10月05日 午後1時半の集合時空襲。上海陸戦隊本部付近の多数の探照灯がある。
        高高度の為、高射砲が届かない。10時25分発。橋が破損の為休止後修理が終了次第行軍開始。

10月06日 夜間行軍。顔が泥だらけになる。部隊とも食事が取れず空腹となる。胡家浜にて露営。
10月07日 夜警の歩哨後、勤務者以外は大隊教練に参加。午後10時から雨が降り出す。
        壕掘り演習でずぶ濡れになる。煙草とサイダーを買う。天幕より雨漏りで寝られず。

10月08日 雨止む。薪が濡れて火をたくことが出来ず、支那の民家で飯炊き。
10月09日 雨。小隊教練。雨でやる気が出ない。
10月10日 第1、5分隊で、旅団報告の為、膝まで没する泥道を各部隊の負傷兵を確認しに行く。
       兵装が濡れてしまい帰営後、12時近くまでかかって乾かす。

10月11日 午前中武器手入れ。午後編成。
10月12日 午前7時発。道を間違え前線の大平橋付近にて休息。道路工事を終えて、蔡寧宅露営。
10月13日 夜明け冷え込む。午後演習。幕舎警備で参加せず。
10月14日 午後6時集合、劉家行へ向け出発。迫撃砲や小銃弾が飛来する中で道路敷設。
10月15日 午前9時中隊教練。午後1時より大隊攻撃陣地並びに突撃陣地構築作業。夜同作業並びに突撃開始。
10月16日 午前中小隊訓練。午後渡河訓練。徴発にて参加せず。午後5時出発。
       午後7時に某敵弾の来る中塹壕を掘り露営。塹壕中の水で腹をこわす。

10月17日 朝敵弾飛来。負傷者有。午前9時出発。前線に到着。
       分隊の兵士の背嚢に弾丸が当たるような雨のように敵弾が飛来する中で塹壕掘る。
       午後4時再出発。午後5時大隊交戦を開始。敵弾絶え間なく続き迫撃砲により若干の重傷者。
       南朱三房付近で交戦。

10月18日 午前6時突撃開始。第7中隊援護射撃。中隊集結し大隊の予備に相家橋に集結。
        この時敵弾による被弾。幸運にも兵装のみ。塹壕を掘り露営。

10月19日 午前8時集合出発。須宅に午後第9師団と交代する。午後10時敵攻勢。
10月20日 午前2時と4時に敵攻勢。午前9時、握り飯1個渡る。午後5時穴の狸のような所に116連隊の中隊が
        加わる。敵の攻勢絶え間なく。

10月21日 須宅配置儘。午後1時より抵抗線作成。午後5時2・5分隊が前進。
        断続的敵弾飛来の中で拠点確保作業。部隊負傷者出る。元拠点復帰の命が出るが復帰。

10月22日 午前1時須宅前に人影有、分隊より射撃。日本軍斥候への誤射かと思われたが敵軍夜襲で交戦。
        午後3時にも夜襲があり交戦。敵は交通塹壕を使い手榴弾を雨のように投げ込んできた。
        激戦後敵交代。午前8時第26連隊と交代。師団の予備に入る。

10月23日 午前8時集合。前線へ向かう。苦戦をした第104連隊と交代。塹壕中を支那兵の遺体の間を縫って
        這っていく。午後6時配備地に着。敵陣不明。敵弾猛烈を極める。

10月24日 猛烈な弾丸の応酬の交戦。夜間壕を掘り進め攻撃準備。後部に背嚢を於いて前線へ戻る途中、
        迫撃砲を見舞われながら命からがら前線へ戻る。

10月25日 午前8時前進命令。突撃を重ね三家村占拠。小隊は第1・3・4分隊長を含め戦死者続出負傷者も多数。
        分隊のと離れて露営。

10月26日 午前中は中隊との連絡員となり分隊に戻る。おむすび半分を食べる。午前8時20分より再突撃。
        三家村を守備。午後9時40分敵来襲で戦死者2名を出すが撃退。

10月27日 快晴。敵猛射続く。午後2時頃日本軍による空爆実施。地響き天地に轟く。夕飯の給養無し。水と乾パン。
10月28日 三家村守備。朝食の給養もなく空腹。昼も給養無く、兵士の士気と戦力が低下する。
        午後1時おむすび一つ給養。午後4時第三大隊攻撃。午後5時半夕食1つ(おにぎりか?)、
        間食餅半分、乾パン2袋、キャラメル4粒。

10月29日 昨日小隊との連絡が途切れる。クリーク渡河前進。小隊に追求。友軍の山砲弾が付近に落下して危険。
        馬家宅東方面に連隊は終結。午後0時より午後1時迄友軍の空爆、
        3時30分から友軍山砲の一斉攻撃後、第2中隊による突撃が成されたが失敗。
        第2中隊はほぼ全滅。我が分隊は援護射撃で千何百発を撃ち、銃が焼ける。

10月30日 午前2時頃敵来襲、撃退。午前10時104連隊の甲と交代。櫓網湾へ後退。
        途上数は知れないほどの友軍兵と敵兵の遺体を見る。三家村の壕へ背嚢を取りに戻るが、
        背嚢の中はなくなっていた。班長以下8名の腐敗した遺体を運ぶ。さらに後方の王家橋のへ後退。
        銃声が絶え間なく聞こえる。

10月31日 午前中平気の手入れ。又戦死傷者の平気を三家村付近へ取りに戻る。
        櫓網湾より小隊の遺体を王家橋に運び午後4時半荼毘に附す。遺体はなかなか焼けない。

11月01日 雨で休養となる。壕内に水が溜まり、睡眠が取れなくなる。間食におはぎ1個。
       第7中隊戦死者33名、負傷者71名。大隊中一番の犠牲者を出した。

11月02日 起床後点呼。休養。壕中に水が益々溜まる。機関銃隊へ遊びに行った際、家が潰れ何とか逃げ出す。
11月03日 明治節の為宮城遙拝・万歳三唱。酒・菓子給付。午後0時馬家宅の前線警備へ向かう。
       第11師団第22連隊と午後4時交代。敵全約200mの距離。3交代で夜間警備。

11月04日 膠着状態。勤務外は手紙を書き、昼寝をする。迫撃砲が盛んに撃ちこまれる。
11月05日 歩哨に立つが飛弾で危険。餅一切れ間食給付。タオルが二人に1枚給付。
11月06日 休養。歩哨の戦友が迫撃砲の為負傷。要因が減り困ったことになる。
11月07日 壕中益々水が溜まり、汲み出し後寝るが、蚊と蠅に悩まされる。
11月08日 警備も成れる。食事は22連隊が物資を置いていってくれたので不自由なし。犬を食べる。
11月09日 酒保が出来る。日用品を購入。饅頭が2個で5銭と高いので呆れる。分隊より猫を貰うが食べず。
       間食麦オコシ1個、餅一切れ。

11月10日 酒保で買った便箋封筒ハガキで便りを書く。夜間歩哨に付く。
11月11日 敵弾の飛来は止まらず。午前0時に銃声止む。
11月12日 午前8時■(厄+頁)家宅出発。敵昨夜総退却。追撃を敢行。夜間行軍にて道を間違えたり
       元の場所へ戻る。午後7時頃第104連隊と敵軍追撃の為行軍。

11月13日 嘉定前の敵陣地を占拠。午後3時30分花園宅に着。敵弾少数が飛来。
       夕食、玉子・鶏、大根の葉とご馳走。

11月14日 午前0時発。前の花花園灘を占拠。全面敵状観察後宿営。午後8時大隊の予備隊編入。
       渡河後前進。行軍続き行き先不明で疲労し、新道路を行軍追撃。午前0時半、某所で宿営。

11月15日 昨日に鹵獲した敗残兵1名を刺殺する。午前3時40分頃。待機。午後1時発。
       途中支那人を荷役で使う。某街に着、徴発、宿営。

11月16日 午前7時半出発。雨で難路となり歩行困難。午後2時45分某地で突如交戦。前に突撃し占拠。
       1軒家で重機関銃隊と共に警戒する。

11月17日 停滞儘。午後8時頃街に突撃開始。昨日5中隊が不首尾に終わった拠点を占拠。
       正午更に前進。街(謝家橋鎭)の中程で敵との市街戦。小隊長負傷。家屋内で休息。
       支那人使用人が戦死。

11月18日 第9中隊前面クリーク線を渡河を援護。午前8時30分渡河。街での交戦開始。友軍戦死傷者を出す。
11月19日 夜明けと共に十字砲火(*2)を浴びせる。1日中交戦。
11月20日 午後1時発。左方面を掃討。午後2時30分、謝家鎭出発。工兵隊による道路敷設が間に合わず
       行軍は難航。追撃を敢行。鷲山に宿営。某所は寺院で約200名位の避難民を確認。豚と鶏を徴発。

11月21日 午前7時30分鷲山出発。雨で行軍難航。午後0時30分昼食を取るが2時半まで行軍。某大に宿営。
11月22日 午前10時迄、兵器・被服の検査・手入れ、後休養。ご馳走で満腹になる。
11月23日 午後7時50分頃、支那人の運送船を鹵獲して船で出発。江陰城の敵陣へ向かう。
       上陸後敵の猛射を浴びながら前進。1名負傷。夜間継続して行軍。小にて大隊全員で宿営。
       午前0時30分。

11月24日 午前3時頃敵夜襲があり、分隊長戦死。分隊の士気が下る。午前8時、荼毘の用意が出来たが
       出発命令で、埋葬。涙が流れて如何とも無し。午前10頃前面占拠。拠点確保交戦で敵撃退。
       午後4時頃出発。祝塘鎮手前ので宿営。

11月25日 前日に続き前面を占拠。小で宿営する。夜間の進撃は敵弾にて停滞。
11月26日 午前5時30分発。祝塘鎮を占拠後又前進。某の手前で友軍の砲撃で小隊3名負傷。
       で大豚と鶏徴発。たらふく食す。

11月27日 午前7時半発。追撃開始。野砲部隊を師団が収容し行軍。煙草(ひびき)(*3)2箱と靴下の給養。
       某で2、3日休養後江陰城攻撃の予定となる。

11月28日 朝急の命令で出発。江陰城を目指す。軍行路には戦車、自動車も通行。
       江陰城の敵が総退却の報を受けての敵退路を断つ目的で行軍。途上全面的多く停滞。
       第7中隊右方面迂回攻撃。夕食と宿営の準備の途中で出撃命令。クリーク線で敵との交戦停滞。

11月29日 夜明け前日の民家で朝食準備。南閘鎭を夕方までに完全占拠。工場に露営。
       第5中隊の准尉戦死。

11月30日 明け方、工場より退却敵軍に対して射撃。数百名殺害。午前9時発。前面占拠。
       クリークを越えた所で警戒線を作る。伍長戦死。

12月01日 晴。夕方まで警戒。敵退却。夜襲を実施。友軍の戦車・自動車と共に江陰城目指し前進。
       軍行路で露営。

12月02日 晴。午前10時、江陰城入城。敵の遺体が山の様に路面の両サイドにある。
       城門近くで友軍の山砲の誤射に合う。街から出た場所で昼食と休憩。
       大隊の兵が敗残兵1名を鹵獲。街の北方山頂で軍旗遙拝し連隊長より訓示後所定の宿舎に宿営。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 休養。武器・被服の手入れ。街中へ徴発。江陰城の街は略奪されて何もない状態。
        水飴・ナツメご馳走沢山ある。

12月04日 晴。休養。外気は寒く。平穏で特に記述する事がない。
12月05日 晴。朝氷が張る。平穏。附近のへ徴発。他部隊のものは要塞砲の見物に行く。
        昨日第3次補充兵が到着。補充兵はそのまま出立。

12月06日 晴。朝東方山で第3次補充兵隊の軍旗遙拝及び部隊長の訓示。
        後編入があり、3名となった分隊にも編入され7名になる。

12月07日 晴。午前7時半発。南京へ向け行軍。寒いが敵影無し。某に宿営。
12月08日 晴。支那人を荷役に雇い行軍。通過や宿営は名前が分からない為書き残せない。
        途中の橋梁などの損壊などで行軍が停滞する事がある。

12月09日 行軍。鎭江附近。疲労困憊。
12月10日 鎭江に着。先着部隊に町中心部を取られて町外れで宿営。物資は豊富。電灯が付き便利。
12月11日 晴。サイダー徴発。午前11時出発。京図鎭着。
12月12日 晴。徴発。
12月13日 出発。前日夜間行軍。明け方近く某着。
       明日早朝出発予定だが、宿舎で二度も火災を起こしかける。

12月14日 出発直後、第8中隊が山手から敵兵による手榴弾攻撃で、戦死者1名、負傷者1名を出す。
       明け方に南京目前となり、前衛の第3大隊が支那兵の投降兵を鹵獲。
       1万8千の全ての捕虜を一に収容した。第5中隊が幕府山を攻撃・占拠。
       両角部隊が南京攻略戦の戦死に名が載る。軍旗中隊となり夕方支那軍水雷学校に宿営

12月15日 何もする事がない。周辺で敗残兵掃討へ出るが、敵影無く。徴発に変更。
       支那饅頭が旨かった。16師団が敗残兵を殺害するのを見たが残酷だったという話を聞く。
       英国会社は電灯付くが、日本軍は手出しが出来ないと聞いた。

12月16日 晴。朝8時に出発。小隊長と共に南京城見学に入る。明日の入城式には歩哨の任があり式典に
       出席できない為の配慮である。城内は結構荒れている。大きな街だが、何もない。夕方帰営。
       第4次補充兵編入。

12月17日 晴。4交代の歩哨。日中は単独の歩哨。夜間は複数での歩哨。工兵隊が南京附近のトーチカ類を
       爆破しているのが印象に残る。夜は第2小隊が捕虜を殺害する為に行く。
       戦友が兵を半円形に布陣して機関銃・軽機関銃で射殺。その事については余り書く事が出来ない。
       7千余りが揚子江でと戦友からの情報。

12月18日 休養。1昼夜の歩哨の為、殆ど寝て過ごす。足の小指痛む。
12月19日 平穏。第3小隊が昨日の支那兵の遺体を取り片付けに行くが、足の小指の痛みで残る。
       片付けるのは面白かったと聞かされる。

12月20日 朝9時出発。揚子江渡航。浦口鎭着。


 

【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、

これと言って特筆すべきものは無い。

12月8日に支那人を荷役に雇っている事。12月15日に16師団が行ったという敗残兵殺害が残酷だったという話を聞いた事。英国企業おそらくは和記洋行と考えられるが権益の問題から【手出しが出来なかった】と記述している。

その他のエリアに【一般人】が【大勢居た】ことも【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。この人物も鎭江を越えた当たりから宿営地が火災になっている。単なるミスなのかフシギな点である。

《A》の定義外ではあるが、11月20日に謝家橋鎭(常熟の北5kmぐらいの地点の街)の附近にある鷲山という地の寺院とおぼしき場所で200名程の避難民を確認している程度だが、これを殺害等々を行ったような記述は見られない。
この人物は以前ブログに書いた同第二大隊の遠藤高明(第8中隊)が書いているような【収容所火災】の記述が見られない。南京からの夕刻帰営後の中間に出した火災跡の騒然とした事も書かれて居らず、第7中隊と第8中隊の宿営地が異なっていた可能性を示してはいるが、その他にそのような記述や史料が無いので少し違和感のある内容となっている。
11月17日には、荷役の支那人が戦死をしたのは気の毒である。

 

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*4)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この柳沼という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。

引用 チャールズ・メイヤー(*5)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この柳沼の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)十字砲火 wiki 【Link】
(*3)懐かしい日本のタバコ歴史博物館サイト【⑭[口付タバコ]】 【Link】
(*4)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*5)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 

 

 



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